捏造出会い『刺客偏』
漫画で何度か見たことはある。映画でも数度見たが、現実に体験するのは初めてだ。
大きな飾り窓のある貴族の令嬢が好みそうなホテルの一室だった。たっぷりしたレースのカーテンが幾重にも襞をつくり、毛足の長い絨毯が靴音を吸収する。
猫足のテーブルセット、移動要塞のような天蓋付きの寝台。そこでナイトキャップを被って眠る三十路男。
どういう不可逆的要素がこのおっさんをこの部屋に宿泊させたのか。
寝台に半ば乗り上げて黒衣の男は逆手に握ったナイフを男の首を狙って振りおろす。その数もそろそろ十回を越える。
「・・・・」
決して声はあげず黒衣は驚愕していた。ナイフがつきささる直前に男はごろんと寝返りを打つのだ。
ごろん、ごろん、ごろん、ごろん。ナイフは布団にささることなく空中で停止。元の位置に戻り男の首を狙う。頭を押さえつけて首を切り裂く・枕を顔に押し当てて銃で撃つ・馬乗りになって刺す。
いくらでもやりようはあるのだが、黒衣は他を選ばなかった。あくまでも首を狙いナイフを振り下ろし・外し・空中で止めて引き上げ続ける。
新聞配達の自転車の音を聞き、黒衣はようやく反復作業を切り上げる。
物音一つたてず去っていく黒衣の暗殺者を薄目で見送り、男がゆっくり起きあがる。
「なんでローライズなんだろ」
暗殺者が残していった体温を手のひらでぽんぽんと撫で、喉の奥で悲鳴をあげた。筋肉痛と寝不足が痺れになって全身をまわっていく。
ロンドン・ガジェット新聞の一面は切り裂きジャック再び、という記事だった。ご婦人の腹を切り裂く殺人事件が先月から3件発生しているという。
いずれも同一犯人と思われ、警察は対策本部を設置。ご婦人方の共通点は金髪の持ち主という一点のみ云々。
コーヒーハウスで新聞を流し読み、ウィルバーは懐中時計をちらと見る。時刻は午前十一時。長い黒髪を目印の赤いリボンで一つに縛り、待ち合わせの男が小走りでやってくる。
「待たせたっすかね?」
「いいや、時間通りだ。よろしく頼むよ」
落ちそうになった顎をそっと手のひらで受け止める。昨晩の刺客が服装もそのままあらわれたびだ。違うのはリボンくらい。
馬鹿にされているのだろうか? 度胸試しか?
軽く手をふり、愛想よく挨拶をした。思うことなどなにもないという態度。初対面の演技。
今回ウィルバーがロンドンにやってきたのはほかのチームが任務途中で紛失した指輪を回収する為だ。
原則組織はチーム単位で動くが、ウィルバーは前のチームから抜けたばかりで一人の身だった。
案内屋の青年にロンドン中の古売屋を案内してもらいながら、ウィルバーはこのままチームを組んでくれたら殺されなくてすむかなと、ヌルイ考えがふりはらえない。
「なかなかそれらしい指輪はないっすねえ」
「宝石がついているわけでもないからねえ。捨てられてしまったかな。鋳潰されてしまったとか」
「はあ。落とした場所とか、手がかりは他にないんすか?」
「死人にくちなしだからねえ。逆に犯人が持ち歩いているとすると、指輪の真価を知っている人間ということになるね」
「ほほぅ。指輪の真価っすか。なんなんです?」
「ふふふ。困ったことに私もしらないのだよ」
得意気なウィルバーの哄笑に男はきかなきゃよかったと首を振る。それでも日が暮れるまで古売屋を周り、明日も続きの案内を頼む約束をして二人は分かれた。
指輪をめぐるウィルバーの前任者の顔も名前も知らされていないが、喉をまっぷたつに割られていたという痛そうな死因だけは聞いている。
「さて」
昨晩同様黒衣の後姿を見送って、愛想のよい表情のまま困ったぞと口のなかでつぶやく。
「なんでローライズなのか聞き忘れたが、これは今晩聞くべきかな?」
彼が今晩また来るとして。
昨夜寝室に現れた姿のままだった彼は、今日の汗を流し違う衣装であらわれるだろうか?
口笛でも吹きたい気分でホテルに戻る。日中無視していた筋肉痛がそろそろ本気でウィルバーを苦しめ始めていた。
「さて」
ウィルバーと別れた黒衣の青年は、期せずして同じタイミングで困ったぞとつぶやいていた。
上着のポケットには昼間さんざん探し歩いた指輪がある。ブーツにはナイフが忍び、ジャケットの袖口には鋼線が仕込んであった。
実のところ今日の白昼昼日中、青年は適当なところでウィルバーを始末するつもりだった。
ウィルバーが「知らない」といっていた指輪に関する流れからなのだが、ウィルバーを始末したところでまた次の人間がくるのだろうなぁという苦い予想もある。
あるが、まぁ。それは実際どうでもよく。
「どうしたもんっすかねえ、あのおっさん」
一日行動をともにして、その隙の多さに驚いた。いつでも殺せるし、いつでも殺されそうになっている。
ウィルバーは自分が狙撃の的にされていたことも、青年が巧みにウィルバーを守っていたことにも気づいていないだろう。
「危機感なさすぎっすよ」
ポケットのうえから指輪をぽんぽんとたたく。某国地下組織の首領の証の指輪だと、教えたら彼も震え上がるだろうか。
なんとかシャワーを浴びたものの、ドライヤーを固定できず髪を乾かすことはあきらめた。ウィルバーは忸怩たる思いで寝台に腰掛け苦労して組織へ中間報告を送信する。
すぐに指輪の詳細が送られてきた。「なんの成果もあがってないんだろう?わかってるよ、ちょっと教えてやるから頑張ってみろよ」といわんばかりの内容。
内容を読み進めるうちにウィルバーの表情が強張っていった。
「思ったよりも剣呑ではないか」
紅茶を飲んで落ち着きたいところだが、ルームサービスを頼むには受話器が遠すぎる。
唇を引き結んで案内屋の青年兼暗殺者の青年のことを考える。
彼が指輪の回収に来ている地下組織の人間または、横取りに来た組織の人間だとして自分の処分をどうするだろうか?
昼間殺されなかったのはあくまで寝ている自分の喉を真っ二つにするという執着心があるからかもしれない。
ならばずっと起きていれば安全か? かなりどうしようもないことを考え、逃げてしまいたいような気持ちになる。ウィルバーの密かな自慢だが、彼の人生で殴り合いに勝利したことは一度もない。
勝負はいかに喧嘩を避ける流れをつくるかだ。
顎に手をあて考えるポーズをとろうとして、腰の筋肉が悲鳴をあげた。「ぎゃあ」と情けない声が部屋に響く。
「ひぐ、む。いやいやいや、まけないのだよ」
脂汗を流して自己暗示がごとく台詞をはく。ぴしっと姿勢をただし、ただそうとし、
「ぅあ」
官能に近い悲鳴をあげて動けなくなった。
「なんつぅ声だしてんすか」
「こんばんわ。ぎっくり腰をやったかもしれないようだ」
「それ、言葉つかいあってんすか? こんばんわ。いい夜っすね」
「まったくそのとおりだね。つきが美しい」
「曇りっすよ」
昼間別れた青年が同じ格好で戸口に立っていた。足音も開錠もドアを開かれたときも当然に無音。
髪はおろし、ポケットにつっこまれたリボンが端をのぞかせている。外は寒いのか昼間より白い顔で音もなくウィルバーの横へ歩いてくる。
「3人っす」
「なんだい?」
「ここにくるまでに倒した刺客の数っすよ」
「君は人気者なんだねえ」
「あんたが狙われてんすよ。自覚した上での余裕なんすか、それともただの馬鹿なんすか?」
「いやあ。きみが私の喉を割りたいようだったから、それまでは大丈夫だろうとは思っていたよ」
口からでまかせだが。ウィルバーは腰痛に脂汗を、青年の迫力に冷や汗を流す。
青年がさっと手が動かした。いつのまにか艶消ししたナイフを握っている。
振り上げる予備動作もなく、ナイフはウィルバーの首に押し当てられていた。
じりじりと刃先が食い込む。ウィルバーは身じろぎひとつせず、青年を見ていた。青年の黒瞳がじっとウィルバーを見返している。
一度ナイフが離れた。今度は思い切り振りかぶり、身体をひねって背後を斜めに裂く。
蜘蛛の巣が裂かれ、地に落ちた。いつ投擲されたのか、捕獲用のネット。
「5000ドル」
「なんだい?」
「案内料の上乗せ。昼間から庇ってる分を考えると安いくらいっすよ」
「ケチ臭い。私とチームを組まないか?」
「あんた、自分の立場わかってんすか?」
「腰痛で動けない素敵な紳士だと心得ているよ!」
ウィルバーの哄笑に青年が吹いた。続々と雪崩込んでくる刺客は、どうもウィルバーが「指輪」を持っていると勘違いしているようだった。
指輪を奪って勢力拡大を図る地場組織の若手と、青年は読む。相手にする脅威はないが、単純に数が鬱陶しかった。
「俺はあんたの部下になるんすか?」
「そうなるね」
「他に部下は?まぁ、いなさそうっすけど」
「もちろんいないとも。だから君は部下であり相棒だ」
まだ返事はしていない。相棒と書いてバディと読むのだと動けないウィルバーが大声をあげ、叫んでいる。腰痛と窓を割って入ってきた刺客への悲鳴だった。
「こいつらのボスになるよりは楽しそうっすね」
「ぎゃああああ」
「舌噛みますよ」
青年がウィルバーを横抱きに抱える。腰がどれだけ痛むのか、泡を吹いて黙るウィルバーを気にしつつ既に割れた窓から青年は夜のロンドンへ飛び出した。
それから数ヶ月。組織に「紳士組」を名乗る新チームができた。
どういうつもりか茶ばかり飲んで遊んでいると苦笑まじりの噂が流れ、数年を置いて彼らがベテランもあきらめた「指輪」を回収したというスパイスの効いた報告がヨーロッパ支部を驚かせたという。
捏造出会い『他チーム偏』
忠誠心があるかと問われたので無いと応えると殴られた。
無かったら殴ると前もっていってくれれば尤もらしく嘘をついたのに悪の秘密組織は融通がきかない。
うっかり殴り返すと倍で殴られるし、倒れたら馬乗りになられるし、重いし痛いし面倒くさいし、いっそ意識を手放そうかと思ったけれど、
それをすると尻の穴まで狙われそうだから仕方なく倍で殴り返して倒して、馬乗りになって重くて痛くて面倒くさくなるまで身体を動かしたら尋常じゃなく疲れて、
もうほんとうにもう本気で寝たくなったから医務室へ行った。
「ベッド貸してくださーい」
声をかけても返事は無い。廊下ですれ違ったのは血相をかえた医者だったかそうだったかじゃあ今頃はさっきの場所か?
ああ。もう。
今日何度目の嫌気なのだろう。血液に溶け込んで血管に棲み込んで嫌気自体を感じなくなれば普段使わない頭が余計使われなくなって100年物の洋館のように蜘蛛の巣だらけになるだろうか。
そうなればいいなあ。何も感じないレベルまで意識を落とし込めばそのまま冬眠するように目は開かなくなる?
いや、空腹で瞬間的にありえないほど行動的になるだろうからこの計画はなしだ。アップダウンなんてとんでもない。
悪の秘密組織に所属してもフラットラインの日常がいい。
「ここがあいているよ。紳士のなかの紳士たる私としては、さきに怪我の手当てをすることを提案するがね」
顔にくっきりシーツの後をつけたパジャマ姿(シルク)の男がスリッパでやってきた。 男は聞く前に「紳士ウィルバーです」と名乗る。
「はぁ。えっと、」
名前というかコードネームを名乗る。紳士は片手を差し出してよろしくという。 なにをよろしくするのかわからないが、大人なので同じく手をだしよろしくといった。
「喧嘩かい?」
「いや、まあ。そんなもんっす」
「ははは。君は喧嘩が強いようだね」
スツールに座るよううながされ、大人しく消毒をされる。
大きすぎる絆創膏を貼って、「痛み止めはいるか?」と問われる。
「いらないっす」
「そうかい。私は飲んでもう一眠りさせてもらおう。ベッドはたくさん空いているけれど、カーテンがぴったり閉まるのは後ろの2台だけだよ。
1台は私が使っているから残り1台だね」
目の前で白い錠剤を飲み込みぺたぺたと部屋奥へ歩いていく。
「どっか悪いんすか?」
初対面の相手に聞くようなことではないが。
なんとなく聞いていた。
「虫歯だよ」
紳士がわざわざ振り返って頬を指差す。歯医者に行けよと思った。紳士はつっこみを許さず、さっさとベッドに戻りカーテンをぴったり締める。
そのまま隣のベッドで眠るには目が覚めてしまったが、他に眠る場所といえば殴り倒してきた暫定上司の属するチームの部屋しかない。
「・・・お邪魔します」
理由はないこともないがあるというほどもなく。
紳士のベッドのカーテンを開いて通ってカーテンを締めて。
紳士の隣にもぐりこんで頭まで布団を被った。紳士は一度大きく瞬きをしたが、横にずれてスペースをつくってくれた。
「これはどういう状況だ?」
「私の言葉じゃないかな? 体調不良患者の聖地、カーテンに囲まれた寝台をなぜきみに侵されなくてはならない?」
頭の上で声がする。やたら苦々しい聞き覚えのありすぎる声と、強気で傲慢で居丈高な聞きなれない声だ。
「気色悪いことをいうな。俺はチームの一員を探しにきただけだ」
「ぼろぼろの態で治療を受けにきたのではないのかね?」
「そこで寝ている奴のおかげさまで集中治療室帰りだ。てめぇは面倒くせぇなウィルバー、てめぇがたらしこんだガキを寄越せと、いっているんだが?」
「チームの一員を探しにきたのだろう? 見つかってよかったじゃないか。集中治療室もその程度の怪我でいれてくれるとは、気軽になったものだねえ」
「歯痛で昼真っから寝てる野郎の台詞か?パジャマまで持参してる奴ははじめてみたぞ」
「それはきみの経験が浅いからだよ。まぁそれはそれとして。数秒前の会話に戻ろうか」
隣から人肌が消えた。目を開ける。布団から頭を出す。身体を抜き出す。ベッドの上に立ち上がる。
暫定上司がパジャマ姿の金髪紳士の首を握ってつるし上げ、金髪紳士はつるし上げられたせいで高くなった視点から暫定上司を見下ろしている。
「窮鳥懐に入る、だよ。きみの方が弱いものイジメをされたようだけど紳士的にどうでもいい」
金髪紳士の口からヒューヒュー細い息が漏れる。暫定上司が俺を睨んでいる。背筋が竦んでいる。
集中治療室へ行ったというのは大げさとしても、彼のなかの本能らへんは俺を危ないものとは認識してくれたらしい。
「彼をたらしこんなど誤解も甚だしいがあえていおう。彼はもう私とチームを組むことになったから、もうきみのチームの一員ではないよ」
紳士は俺と上司のにらみ合いの蚊帳の外で息切れしながら言い切った。
上司は紳士の話を聞いていない。聞いていないことは無いが、注意を向ける余裕はない。
「俺、こんどは何組になったんすかね?」
紳士組だよと紳士がいう。
「命令は?」
「床に下りたい」
紳士の足が痙攣している。了解と応えた。紳士には聞こえただろうか
過去の上司に飛び掛る。いまの上司がベッドに落ちる。小さく悲鳴があがる。大きな悲鳴があがりかけて、止まる。
過去の上司の首を握り、吊り上げはせず、床に押し付ける。
これからどうしたものだろうか。腹への蹴りをいなし、首絞めから意識を落とす方向へ力の方向をかえると肩に手を置かれた。
喧嘩を知らない柔らかい手だ。
「床にはもう降りたよ。マネージャーにチーム結成の報告にいくのだがね、さすがにパジャマではいけないから、部屋に戻るついでに新しいきみの部屋へ案内しよう」
「チーム結成って、紳士組じゃあ?」
「紳士がチームをつくるのだから、紳士組だろう?」
つまりは紳士組結成の瞬間はいまなんだよと紳士がいう。
「ウィルバー、」
過去の上司が大きな口をおおきく吊り上げる。
「せいぜい寝首をかかれないようにしろよ?」
ぎょろっとした目が俺をみた。別にこの上司のことは嫌いではなかったと縁が切れた今になってようやく思う。
大体今までの暮らしのまま、殴ったり殴られたり、ときに笑い合いさえするチームではあった。戻りたいとは思わないが。
「紳士は、つねに紳士的にあるだけだよ」
紳士ウィルバーは意味不明に自信たっぷりに返事をした。俺は紳士の後ろにつき、そっと、紳士の頬に指をさす。
紳士が死にそうな悲鳴をあげる。着替えのあとはマネージャーの部屋ではなく、歯医者にいくことになった。
捏造出会い『病院偏』
雨を浴びて歩く。大通りの雨は廃棄ガス臭い。裏通りへ向かえば、少しずつ生臭くなっていく。
水溜りを避けて跳ねる。大またで歩く。雨樋から漏れた、粘着性の水を浴びる。裏通りのどん詰まり。3メートル近い灰色の壁を越えると彼がいる。
靴底の泥を壁を蹴って落とし、ふっと息を詰めて跳ぶ。一度壁を蹴って、更に跳躍。宙にいる間、濡れた衣服を重力やら社会やらを、自身を宙から引き摺り下ろすしがらみのように感じる。
ほんの数秒。
壁を越え、泥濘に足をとられながらもなんとか二本足で着地すると早足で壁と同じ灰色の建物に向かう。
緑青の浮いたドアノブをまわし、内へ踏み込むときには髪も服も水滴も、自身の一部として頼りなく感じている。
「こんばんわ」
声をかける。建物の中には雨音が聞こえない。チリチリと建物の奥で機械が動いている音。窓はあるが、どれも汚れて用をなさない。湿気た薄暗い廊下をずぶ濡れで歩く。
「こんばんわ」
もう一度声をかける。一つだけ白いペンキで塗ったドアをノックする。
「どうぞ。あいているよ」
ゆっくりとドアを開く。彼は、いつものように長椅子に座ってノートをみている。
「ひどい格好だね。雨かい?風邪をひいてしまうよ」
「相当に雨ですよ。風呂借ります」
「ああ。私も入ろうかな」
「はあ。溺れないようにお手伝いしましょう」
彼はウィルバーという。枕詞に紳士とつくが、そこはあまり触れてはいけない。
ウィルバーは俺が新聞配達で生計をたてていた少年時代からこの部屋にいる。数ヶ月いないこともあるが、いつのまにか戻っている。
十数年も前に看板の外された、官営病院の隔離病棟が彼の巣だ。取り壊す計画が数年ごとに出ては消えている。
「髪が泡立たないよ・・・」
「汚れてるんすね」
「そうだねえ。気合をいれて洗ってあげるよ」
「頼もしいっす」
肋骨のわかる胸をなぞる。くびれのない腰をさする。
ウィルバーは俺の膝に腰掛けて頭っからざぶざぶ湯をかけてくる。二人とも腰布一枚の格好で、「温泉スタイルだよ」と脱衣所でいわれた。
「温泉って保養地ですか」
「うん?ああ、保養地だね。欧州の温泉は水着で入るから、きみはタオル一枚で入らないほうがいいよ」
「保養地にいく予定はないんで」
「タオル一枚で入る温泉は日本にあるんだよ。来月行くのはまた欧州だけどね」
保養地でもないけれど。ようやく髪があわ立ちはじめたのか、彼の指が俺の髪をやわらかくかき混ぜる。
「戻ってくるんすか」
暖かい泡が耳朶に入ってくる。彼は聞こえないのか指を動かすことに専念している。「いつ帰ってくるんすか?」
頭っから湯がかけられた。シャワーが目も耳も口も塞ぐ。腰にはりついたタオルが形を変えた自身にまとわりついている。
「一緒にいくかい?」
頭上で彼が言う。俺は強情なこどものように、彼の腰に抱きついて行きますと怒鳴った。
轟音と土煙砂埃、ガラスが太陽を跳ね返す幾筋の光。
十年近く俺が通った建築物が鉄球とブルドーザーであっけなく壊されていく。彼があの部屋を出た三日後のことだ。
三日を俺の家で過ごした彼は、黒いスーツに身を固めて俺の隣に立っている。
「出た後でよかったすね」
「そうだねえ」
「ウィルバーさんぺしゃんこになるとこでしたよ」
「君が怪我する心配もなくなったしね。安心してみていられる」
「寂しくないんすか?長いこと住んでましたよね」
「君がいるのに、何が寂しいんだい?」
彼が片手をあげてタクシーを呼び止める。トランクに荷物を放り込み、さっさと崩壊する元我が家に背を向けた。
「君がこどもから大人になるまで成長を見守ることができた建物だと思えば感慨もあるけどね、紳士は常に前を向いて生きるのだよ。
隣に君がいるのだから、もう他を見る必要もないだろう?」
俺はこの人の認識を決定的に間違っているかもしれない。
後部座席に乗り込み、溌剌とする自称紳士の横顔を見る。
「ウィルバーさん?」
「なんだい?」
どこに行くのかと問う代わりにネクタイの位置を直した。ウィルバーさんは駅まで、と運転手に行き先を告げる。
「謎解きはすきかな?」
「嫌いじゃないっす」
「これから、ヨーロッパ中の腕利きが音を上げたミッションをお仕舞いにしにいこう」
差し出された手を握る。ぎゅっと握り締めて、彼が脂汗を浮かべて口元をぴくぴくさせはじめるのをまって、
「それ、何の話すっか?」
彼の歪んだ笑顔に問いかけた。俺はこのひとのことを何も知らない。


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