『写真のはなし』
「落としましたよ」
「あ、どもっす」
そっと背後から手が差し出される。本屋のカバーがついた文庫本だ。薄っぺらい文庫からひょいと印画紙がはみ出ていた。礼をいい本を受け取る。
「ウイルバーさんの写真ですか?」
「は?」
「購買部にしてはよく撮れてましたね。私もマネージャーの写真を買いなおしました」
「・・・・はぁ」
それじゃあ。朗らかな笑いを残し親切な誰かが去っていく。本をぱらぱらとめくり、ローライズは先月隠しどりした上司の写真を確認する。
意地汚く布団を放さないパジャマ姿のもの。付け加えるなら露出はほぼない。
ローライズは写真を本の間に差し込み、懐にしまう。踵を返して購買部に向かうと、アキラがエリート組に押しのけられて購買部からはじきだされていた。
「どもっす」
「いてててて。あ、こんにちわ」
鼻の頭をなで、アキラが鋭く購買をにらみつける。
「エリート組のやつら、全部買い占めるつもりですよ」
「うちの購買、写真なんて売ってたんすね」
「最近ですよ。誰が売り出したのかわからないし、入ればすぐ完売。なかなか買えない」
「ウィルバーさんの写真もあるんすかね?」
「ローライズさんのもありましたよ?」
「はぁ。なんでまた」
「厄除けとクビにならないお守りらしいです」
「ほほぅ」
妙に腑に落ちた。ローライズはひとしきり購買の人だかりを眺め、売れていく枚数、記号(AだのCだの、さすがに個人名ではなかった)を観察する。
「行ってきます」
すっとローライズが人だかりへ向かっていく。無理やり進むつもりかと思ったが、人の間を縫ってすいすいと最前列まで流れていた。
「アキラさんはシュバインさんの写真でよかったですかね」
「え」
いつ出てきたのかわからない。ローライズはやけに分厚い封筒を懐にしまい、アキラへ一葉差し出す。アキラは両手で受け取ってまじまじとローライズをみた。
シュバインが傘をさして空を見上げている写真だ。寝起き顔のシークレットがよかったと口を出そうになる。
ぽんっと小さな音がした。アキラの頭からコルクの栓が落ちる。
「俺たちが買い占めるところだったんだぞ」
ブリキの銃を構えたエリート組の金髪が仁王立ちになっていた。あれだけ群れていた購買前の山がない。完売御礼の張り紙。つくづくわからない組織だとローライズは思う。
「おれらの写真も買ったんすかね?」
「誰が買うかっ」
「厄除けとクビにならないお守りらしいっすよ」
「必要ない」
きっぱりと言い放ちアキラを睨んで背をむけた。いっそすがすがしい退場にローライズは内心拍手する。
「相談なんっすけどね、アキラさん」
「はい?」
「ウィルバーさんの写真を持ってるとちょっとだけ悪いことが起こるかもしれないんで、俺に渡してくれると安心っすよ」
半身だけ振り返りローライズがアキラへ友好的な笑顔を向ける。アキラは瞬間的に総毛立ち、憐憫的友人たちに押し付けられた紳士組の写真(10組あった)をぎこちなくローライズへ手渡す。
「全部回収にいくんですか?」
「俺は回収になんていかないっすよ?」
あくまでやわらかく。ローライズはいいきってアキラに手を貸し立ち上がらせる。
別れの言葉も簡単に去っていくローライズを見送り、
「やあアキラくん」
ぽんっと肩をたたかれて飛び上がった。ウィルバーが隣に立ち、アキラがしっかと手にするシュバインの写真を見下ろしている。
「マネージャーの写真だね? さっき別の写真を拾ったんだよ。よければ紳士的にさしあげよう」
ハンカチに挟んだ写真を一葉差し出される。さっきもこんな風に渡されたと軽く既知感。
「あ」
「持ってたかな?」
「いえ! ありがとうございますっ」
「喜んでもらえて大変うれしい。さっきうちの部下と一緒にいたようだけど、彼もマネージャーの写真を買いにきたのかな?」
さりげなく質問。寝起き顔シークレット写真を隠すように手帳に挟みこみ、不思議なことを口走るウィルバーに小首をかしげ疑問を呈す。
「なんでローライズさんがシュバインさんの写真を買いにくるんですか?」
「とても人気があるようだから」
他意はないよ、忘れてくれ。いってウィルバーは売店に向かい、
「私は本当に買い物の運がない」
完売御礼の札にわかりやすく肩を落とした。
「アキラくん、うちの部下の写真を持っていたりしないかな?」
『ダブルダウン』
どうしてこんなにも苦しいのだろうか。
原因だろうワインを飲みながら彼が胸を押さえている。
正月三日の23時。知らない香りをたなびかせ、ふらっと帰ってきたときから紅茶を退け酒を飲んでいる。
「おれを想いすぎてるからじゃないっすか?」
「それはいつもだ。常に幸福で苦しくてなきそうだ」
当てこすりのつもりでいえば、表情を変えずにひどいことばを返す。
彼が散らかした酒のつまみを片付けて、酒瓶を取り上げ水を飲ませた。
「風呂に入って溺死したらどうです?」
「沈めてくれるのかい?」
若干青白くなった顔で不器用に笑う。彼は、ふらっと手を伸ばし、顔面蒼白に急変し、よろよろと壁沿いに進み、トイレへ倒れこんで静かになった。
「ボトル半分で酔っ払えるんだもの。経済的っすねえ」
介抱のためトイレへ向かう。彼の背中をさすり、吐瀉物を流し、洗面を済ませた顔へタオルを押し付ける。
「ありがとう」
「どういたしまして。まだ苦しいっすか?」
「うん」
そういって彼はぼろぼろと泣き出した。またどこかで失恋をしてきたのだ。ようやく気づき胸が痛む。
どうしてこんなにも苦しいのだろうか。
彼の手をひき、風呂へ連れて行く。スーツを脱がして熱いシャワーのなかに転がした。浴槽に栓はしていないから、溺死することはないだろう。
彼はぽかんとおれを見上げ、おれは彼を見下ろし、置き去りにキッチンへ戻る。
飲み直し用に肴を用意し、土産にもらった日本酒を燗につけた。
『マフィン』
キスをしてもいいですか? 聞けば答えはいつもNOだ。
仕事なんかありますか? 答えは大抵紅茶か掃除。
掃除も紅茶も彼の用なら望むところだが、おれは彼に誘われて「悪の秘密組織」に入ったはずなのだ。一般の会社でもこの仕事内容はありえない。
「仕事ないんすか」
「ええっと・・・散歩でもいこうか?」
「構ってほしいわけじゃないっす。ウィルバーさんの部下になって一ヶ月、紅茶と掃除しかしてないんすけど」
「いつもおいしい紅茶をありがとう」
「おれは家政婦なんすか?」
「まさか。相棒だよ」
「護衛とか暗殺とか襲撃とか捜査とか!ないんすか? ほんっとにないんすか?」
「護衛も暗殺も襲撃も捜査もあまり面白そうじゃないしねえ。そういう任務はすぐ若いこが持っていくし」
「とってきます!」
「やらないよ、ローライズ君。まあゆっくり散歩にでようじゃないか。パン屋に焼きたてが並ぶ時間だ」
この人の部下として悪の秘密組織の一角で掃除や紅茶をいれているあいだ、この人は紅茶を飲むか新聞を読むか、散歩にでるかしていなかった。
「・・・ウィルバーさんもしかしてすごい大物だったりするんですか?」
「ふふ。紳士は自分を語らないものだよ」
ステッキを持って外へ向かう。堂々とした姿はとても格好いいが、聞こえる噂や向けられる視線は尊敬や憧憬と程遠い。
少し猫背気味になって彼の後ろを歩く。散歩に出るときはいつも自分が護衛犬になった気がする。
「ローライズ君はどんな仕事がしたいんだい」
「どんなってのはないっす。ウィルバーさんの部下なんすから、任務を手伝ったり」
「私をいつも助けてくれてるじゃないか。十分職責をはたしているよ」
「ウィルバーさんの職責はどうなんすか?」
「私は私の人生をたのしいものにするために動いているだけだからねえ」
「それ、おれ以外にいっちゃだめっすよ」
「前の上司にもそういわれたよ。大丈夫、紳士はひとを見る目があるものだ」
ステッキですっと道の角をさす。
「出遅れてしまった」
パン屋の行列に彼が笑う。行列にそって歩き、ちらちらと店の中の様子を盗み見ている。
「ローライズ君」
「俺が並んどくっす」
「いやいやいや。もう一区画先においしいマフィンの店がある。そこまで歩こうじゃないか」
おれのひじをつかみ引き寄せる。腕を組むとはいかないが、肩がかすめる距離。
店の中から彼をみる視線に気づいた。壁にされたことに誇らしさを覚える。
「あれが前の上司だよ」
おれの影にはいって彼がくすくすと笑っている。
「脱サラというやつだね。パン屋になるのが第二の夢だったそうだ」
ますます組織のことがわからなくなる。店の前を通り過ぎ、彼がいつもの距離をおく。
一歩半の距離を詰めて今度は彼の肩を抱いた。一区画半彼はなにもいわず、緊張する様子もない。
「ウィルバーさん、キスしてもいいっすか」
彼はやはりNOという。構わず額にキスをした。
『雪目隠し』
夕焼けを見ていると雪がまつげに落ちてきた。どこかで雪が降っている。風が雪を運んでいる。
紫から群青へ変わっていく空を見上げ、はらはら流れる雪を追う。風花というのだと以前彼がいっていた。山のほうから流れてくるのだろう、と。
「山ってどこにあるんすか?」
「電車で二駅ほどさきにありますよ」
独語に返答があった。買い物袋を自転車の籠に乗せて、日野家の長男がいつものように笑っていた。
「荷物を持っていただいてすみません」
「いえ。なんでもないっす」
荷物を満載した自転車を押して日野兄がリリエンタールとまた遊びに来てほしいという。ハンドルに下げられていたトイレットペーパーを引き受けて、ウィルバーさんと伺いますと答える。
雪は日野兄の髪にも降りる。買い物袋に白い模様をつくっている。
「時々うちを見張ってくれてますよね」
くれてます、か。妹のほうなら気づいた途端に鉄拳が飛んできそうだ。
「エリート組ってのがいるんすけど、そいつらが偶にきなくさいんで。組織のなかで動きがあるとかじゃないんすけど」
組織の方針とは別に勝手に動いている気配があるから、たまに、ときどき、家を直接確かめにくる。
「サングラスの?」
「サングラスのはサングラス組っす」
「ローライズさんたちは、紳士組」
「いい加減っすよ」
声をあげて笑う。表情が緩む。
「夕飯召し上がっていかれませんか」
「ウィルバーさんが待ってるんで」
「いつも一緒なんですね」
そういうわけでもないが。そうでないわけでもなく。
返答に窮した。今だって離れているが、どこかで彼と「一緒にいる」気がしている。
「大体、そんな感じです」
考えたわりにロクな答えにならなかった。日野家の玄関先につく。わんこが飛び出してきて、「師匠!」という。
「せいちょーを見てほしいであります!」
「まずこんにちわっすよ」
「こにちわ!」
日野兄が笑っている。
「よければ、少しつきあってやってください」
「じゃあ少しだけ。お邪魔します」
時間はまだ五時にもなっていない。あがるとわんこはもうチェス盤を広げていた。
「むむぅ、ここは」
「ライトニングミツヒコはさっきつかったっすよ」
台所からいい匂いがする。わんこの成長は目を見張るものがあった。次にウィルバーさんと勝負したらどちらが勝つかわからない。
負けたときのウィルバーさんを想像すると変な顔になった。勝ち誇るウィルバーさんもいいが、呆然自失の瞬間も肩を落とす姿も愛らしい。
「師匠?」
「チェックメイトっす」
ちょんっとわんこのキングを盤上からおろす。わんこは大げさに悲鳴をあげた。
「上手になってるっすよ」
「次こそは!」
「その意気っす」
わんこが拳をにぎり燃えている。ウィルバーさんのそんな姿も最高に素敵だと思う。想像を押さえ込む。
表情は極力動かさないようにする。再戦の申し込みにまた今度と頭をなでた。
「また来るっすよ。そろそろ帰らないと」
「よければ、持って帰ってください」
日野兄が小鍋を包んでくれていた。クリームシチューと、パンがいくつか。
「妹さんに殴られそうっすね」
「たくさんありますから。大丈夫ですよ」
ありがとうございます。お口にあえばいいんですが。
大人の会話にわんこがきょとんとしている。お暇すると7時近くになっていた。道路がうっすらと雪化粧をしている。
風花ではなく、頭上から雪が降っている。ワインを買って帰った。ウィルバーさんはチェスの本を見ながら詰めの勉強をしていた。
「ただいまっす」
「おかえり。わんちゃんは元気だったかい?」
どこに行くとはいわなかった。ウィルバーさんはいたずらっぽく目を細めて、日野のお兄さんから電話があったよという。
「わんこ、上達してたっすよ。ウィルバーさん次は危ないかもっす」
「ははは、ライバルが強くなるのは嬉しいことじゃないか」
「ウィルバーさん泣いちゃうかもしれないっすねえ」
土産のシチュー鍋をガス台におく。家の赤い鍋にもビーフシチューが出来ていた。そちらに火をかけ、暖める。
「ウィルバーさん、」
「なんだい」
次は一緒に行きましょう。それか、大好きです? 続ける言葉に悩んでソファに座る彼に抱きつき、耳元に両方ささやきかける。
「手が冷たいよ、ローライズ君!」
「雪っすからね」
「雪が降ってるのかい?」
「外みてないんすか? どんどん強くなってるから、今夜あたり吹雪くかも」
彼が振り返った。至近距離で視線をあわせ、「鍋!」という。
焦がす前に火をとめ、そんなに時間が経ったかと頬をかく。
テーブルに皿を並べ、ワインをあけた。彼は窓から外にでて雪にはしゃいでいる。
『フライハイ』
チョコレートを一つ口に放り込む。奥歯で噛んで、自分の歯形を思い出す。昨夜彼の肩につけた歯型は赤く歪んでいた。
痛みと羞恥にぐしゃぐしゃにゆがみ彼は白い喉を鳴らす。
唾液が喉を通る。チョコレートの甘ったるさにむせた。
「けほっ」
ごほ、ごほ。器官に唾液が入った。昨夜の想起に表情が緩み、ごほ、ごほ、ごほ。
古式ゆかしい打ちっぱなしのコンクリートの壁と鉄の屋根しかない貸し倉庫。その天井付近。そんなところでも、さすがに衆目を集めた。
大丈夫?と聞いてくれるひとがいないのは寂しい。
「げほっ、はぁ。落ち着いた」
大げさに息継ぎ。顔をあげ、銃口を向ける面々を見下ろす。既に火を吹き、狙いうちにしているのに「なぜ当らないの?」か不思議そうな顔をしている。
答えはワイヤ。鉄より硬く細い糸。
自身の周りと梁に廻らせたワイヤとともにトンっと背後へ一歩飛ぶ。演習。「組織」のチーム同士が「たからもの」一つ取り合い化かしあう最終局面。
足元から迫った銃弾がワイヤにあたり軌道がそれる。頭を狙った銃弾は勘と気合で避ける。
行きます。ココロでつぶやく。とうに身体は着地している。
こんばんわ。ココロでつぶやく。彼がいれば告げているだろう挨拶。
轟音。鉄骨の自由落下に相手チームは統率のとれた退避行動。落下した梁の上を走る。柱に仕掛けた起爆装置を作動させる。
いち早くおれの迎撃体勢に入っていた黒服が吹っ飛んだ。一瞬間目が合った。爆音のなかで銃声が響き、飛んでくる弾を避けたり食らったりしながら、ナイフを投げたり殴ったり刺したりする。
残り3人。元の数は確か3倍。
口の中を舐める。チョコレートの味はどこにも残っていない。この場で一番クレバーな彼らは、黒いトランクを抱え出口に向かっている。
彼らの足を狙いナイフを投げる。一人の足を掠める。少しだけ速度が落ちるが、倒れはしない。
「こんばんわ」
入り口で逆光を背に紳士的な挨拶が一つ。
ステッキを回転させた。笑顔を浮かべ、なんとか訓練通りにステッキを閃かせ縦列に突っ込んでいく黒服の男たちを転ばせていく。
「ぶらぼー」
男たちの手をすっぽ抜けて床をすべるトランクを拾った。彼はステッキを下ろし「ありがとう」。おれを見る。
「大丈夫かい・・・酷い有様じゃないか」
「大丈夫っす。防弾仕様なんで」
不安そうに表情をゆがめ、彼がおれを見る。心配される喜びと、心配させる罪悪感に鼻を掻き、ニヤリ 彼の足元に倒れる黒服たちを見る。
「さすがっすね」
「それほどでもないよ」
彼もニヤリ とする。するが、「はぁ」と気の抜けた息を吐く。
「きみはもう少し地味にできないのかい?」
「はぁ」
返事も気の抜けた息になった。振り返る。派手に倒壊した柱に梁に火薬の臭い。殺しはしてないんすよ、と彼に並びそっと告げる。
彼は大まじめな声で当然などという。とても敵わない。
「帰ろうか。救護室が混んでしまう」
「ウィルバーさんどっか痛いんすか?」
「君だよ」
「おれはなんともないっすよ」
「それじゃあ、彼らが起きて頭がはっきりする前に移動願いを出すとしよう」
歩きながらトランクを開けて、管理人へ演習終了の打電をする。
しばらく何の反応もなかった。隠しておいた車に乗り、おれはウィルバーさんにされるがまま応急処置を受ける。
「どういうトリックを使ったんだ?」
「管理人、その言葉は質問ですか?賞賛ですか?」
トランクが怒号をBGMにしゃべりだした。通信装置がメーターを振り切る勢いで紳士組の演習勝利にどよめいていた。ウィルバーさんと管理人が二言三言話す。
管理人は最終的にBGMを一喝した。ウィルバーさんが余計な一言で再度沸騰させたが。それが原因か否か。
支部へ戻る頃には移動願いが受理され、日本行きのチケットが2枚リボンをかけて用意されていた。
『見世物』
いつものように紅茶を淹れて新聞を読む彼の隣へ持っていったところ、
「これはできるかい?」
新聞の写真(ビール腹の親父がビール瓶でジャグリングをしている)をぱっと見せられた。
記事は酒場が催したジャグリング大会を紹介したもので、優勝者には黄金のビア樽が贈られたという。
「ビール瓶がないっすねえ」
出来ないことはないと思うが。いうと彼は、上司たる紳士ウィルバーはなら今から空き瓶をつくろうと酒屋に走り出そうとする。
「ウィルバーさん、紅茶のまないんすか?」
「勿論いただくとも!」
まず彼を座らせ、紅茶を飲んで落ち着くよう仕向ける。
ビールの空き瓶は借りてくればいいが。借りてきてまですることだろうか?
持ち帰るのも面倒なら返却するのも煩雑だ。彼を酒場へ連れて行って見世物よろしくやってみるのも手だろうが、それも間が抜けている気がした。
「ウィルバーさん、離れててくださいね」
ジャケットから三本、ブーツから2本。ナイフを取り出しジャグリングをしてみせると、彼は拍手をして喜んだ。
「ブラボー!」
ぱちぱちと両手を合わせながら歩み寄り、期待の目でナイフを持つ手を見つめる。「私にもできるかな?」
「・・・」
無理だと思う。やめた方がいい。咄嗟にナイフを仕舞い、次の言葉を考える。彼は一度はじめると途中で投げられない人だから、初めさせないことが肝要だ。
「シルクハットから、鳩をだすのは」
「素敵だ!きみはそんなこともできるのかい?」
「タネとシカケがあれば」
苦し紛れに興味をそらし、
「マジックショップまで散歩に行きますか」
散歩というデートを取り付ける。彼はナイフをしまった俺のわき腹をさらっと撫でて、出かけようという。
「私にもタネもシカケもなしで出来る技があればいいのだけど」
「ウィルバーさんは素で魅力的ですよ」
「・・・ありがとう。君に言ってもらえるととても嬉しいよ」
素で奇術的にひとを魅了するひとがなにをいうのだろう。半ば反射でいうと、彼は絶句して頭を振って、笑顔を返した。顔色でいうと白→赤→桃色。
彼にコートを着せ、帽子を被せる。さりげなく車道側をキープして、目的なき散策のように寄り道だらけの道をいく。
道中いかに彼が(俺にとって)魅力的か吹き込んだところ、店につく頃には少々自信過多になってしまっていた。
『wag the dog』
先輩と対峙したとき、怖いといわれた。
その時代は暗殺術のひとつも体得しておらず、才能だとか潜在能力を評価されたのだと喜んでいた。
いま無手で夜に立ち思う。あの先輩はつまり途方もなくいい人だったのだ。
ナイフを手にした男が二人、どうでもいい理由でおれに切りかかってくる。
コンビニでレジの順番を抜かしたとか、袋が足にあたったとか、そういう言いがかりだった筈だ。ウィルバーさんの留守を狙ってコンビニ弁当を賞味しようとしたのが悪かった。
そして彼らもまた悪い。間とか性質とか運だとか。そういうものが徹底的に悪かった。
おれが公園のベンチで弁当を広げようとした途端襲い掛かってくるのだから。素人動作で突き出されるナイフ、引くに引けなくなった根性なしの怒声。
乱暴な足払い、狙いだけは生意気に首筋を狙ったナイフの一閃。
ぎりぎりで避ける。感覚が鈍磨している。
つまり、刺されてもいいと思っている。それで死ぬわけはないと見切っている。
おれと対峙して先輩は、生殺与奪権を投げつけられた思いだったのだろう。
それは怖い、恐ろしい。見ず知らずの相手に捺印済みの婚姻届をおしつけられるようなものだ。またはその逆。ぞっとしない。
ナイフを2本手のひらで遊ぶ。意外にしっかりしたナイフだった。足元に転がる二人を見下ろす。一人は鼻を陥没させた。
一人は脳を揺らされ呻いている。ナイフを投げる。公園のトイレに数センチ突き刺さって落ちる。
人生の教訓を一つ垂れようかと思った。
喧嘩で済む相手とそうじゃない相手を見定めましょう、とか、ナイフは見せびらかすものじゃありません、とか。
ウィルバーさんならぴったりの言葉をかけるのだろう。食事の邪魔は迷惑っすよ。いくらか砕けた態度を装いそういおうとして失敗した。
喉を踏みつけようとする足はかろうじて制する。
「飼い主とリードを確認するまで犬に近づいちゃだめっすよ」
弁当空と臭いの処置に外で食べようとしたのは結局、彼といるはずの場所で彼がいない証拠のようなものを食べるのが嫌だったからだろう。
ただの悪がき相手に刺されたり殺そうとするのは八つ当たりだ。そんなことは知っていたしわかっていたし、思い知っている。
好きにしろ。いい大人なんだし。途方に暮れて俯きイラつき自分を突き放す。
つまるところ昔も今も、おれは考えることが苦手な飼い主べったりの甘え犬だ。
「こばんわ、師匠」
「・・・こんばんわ」
足が向いたというのだろうか。遠回りになる方の駅に向かうと日野妹とわんこにあった。仕事に出た兄を迎えにきたのだという。
「あんた一人?なにしてんの?」
「帰るところっすよ。お兄さんはすぐ来るんすか?こどもだけで夜出歩いちゃ危ない」
日野妹の強さは知っているが小学生の女の子とわんこだ。残念なことに夜の駅は安全な場所と言い難い。
「アニキ一人で帰るよりは安全でしょ?」
日野妹が腕を組んでいる。あんたは紳士を迎えにきたの? 帰る所といった筈だが妹は今にもウィルバーさんが飛び出てくるようにおれの周囲を警戒している。
にわかに駅が騒がしくなる。ホームに電車が到着したのだ。
足音と人声が溢れ、ばたばたと会社帰りの疲れた顔が通り過ぎていく。腕をひかれた。拳を包まれている。振り返る。振り返るまでもないのだが。
「ただいま」
日野兄が日野妹とわんこの頭をなでて笑っていた。
「ただいま。手が冷たくなっているね」
「ウィルバーさんの手のほうが冷たいっすよ」
偶然日野兄とウィルバーさんが同じ電車に乗り合わせたのだという。車内で二人だけで話すことがなにかの目的だったのかもしれない。
紳士的に日野一家を家まで送るべく雑談しながら駅を出る。わんこは日野兄に話かけるうちに眠ってしまい。日野妹はおれと日野兄の間に立ちはだかるように武の呼吸で動いている。
「血の臭いがするのよ」
眉をひそめて日野妹が早口でいう。おやすみなさい を交わす別れ際のことだ。 日野兄はにこやかに礼をいい、わんこを抱いて日野妹が玄関へ入るのを待っている。
「鼻血っすよ」
早口で返した。自分のものではないが。
日野妹は苦笑していた。おれが鼻血を吹いたのだと受け取ってくれていればいい。
帰りにウィルバーさんとラーメン屋に入った。鼻血の顛末を聞きたがる彼に嘘とはいいきれない程度の事実を白状する。
彼は電車で尻をなでられたよ大荷物の人が通り過ぎただけだったけれども。ぎょっとしてしまった。世の中色々に面白いねえ。
冗談の調子で彼は別行動の一日を語る。
「電車に乗るときは壁に背中をひっつけとかないとだめっすよ」
彼の話がすっかり済んだ終わりにいうとラーメン屋の主人に苦笑された。ウィルバーさんは理解不能のぽかんとした顔をして、時間をかけて理解する。
「そうそう一人で乗らないから大丈夫だよ」
二人分のお勘定を置いて立ち上がる。店を出るとしんみりと冷え、タクシーを拾うまで手をつないで歩いた。
『2/13』
カフェオレボールにインスタント・ミルクティーの粉末と熱湯。
青い縁取りの白い皿にドーナツを三つ。
皿とカップを持つと両手がふさがった。スティックシュガーを三本、端を噛んで運ぶ。 リビングに運びローテーブルに皿を下ろし砂糖を手にとる。テレビをつけてソファに膝を抱える。
頭に入ってこないワイドショーよりも、天気予報を。失望に沈んだ被害者インタビューよりも、天気予報を。チャンネルをいくら回しても昼をいくらも過ぎた時間に天気予報をしている局はなかった。
携帯でもPCでもネットで探せばすぐなのだが。
テレビをけしてラジオをつける。全国的に快晴。雨の心配は寸分もないでしょう。
聞きたかった一声にいきなり出くわし息を呑む。
そのままヒットチャートになだれ込みどこかすわり心地の悪い曲が流れ始める。ぬるくなったミルクティーにスティックシュガーを一本投入。
油っぽくなったドーナツにスティックシュガーを二本散布。理不尽なほど甘いものを摂りたくなるときがある。
いくらかけようとも白砂糖ではたかが知れているのだけれど。
「ぅぐ」
既に拷問のようにじゃりじゃり舌へ付着する砂糖を胃に叩き落とす。
欲しいものと美味しいものが一致しないこともあったのだとローライズ・ロンリー・ロン毛はうんざりする気分で思い出していた。
ピカピカのシンクに洗い物を放置。底で砂糖が固まるカフェオレボールを水に浸し、いつものマグカップにコーヒーを注ぐ。
ブラックで飲めば美味いと感じるのに、どこか物足りない。後悔するとわかっているのにミルクと砂糖を投入し、壁に頭を打ち付けたい気分になる。
自分は何をしたいのか。
甘いものを摂りたいのだ。不義理で不条理で理不尽で暴力的なまでに甘いものが欲しいと頭が訴えている。
どこを故障したのだろう。自己点検をする振りをしてわかりきった答えから目をそらす。
今日は2月13日であり、2月14日の前日。明々後日は15日だがそれはいまのところどうでもいい。
ウィルバーさんは朝から出かけている。今日は一日快晴だそうで、傘を持って迎えに行くことはないだろう。
野暮用といっていたがあれはやはりどこかそれはつまり
「・・・・・・ちょこれーとのようい」
っすか、ねえ? 誰に聞く予定もない疑問を朝からずっと胸に飼っている。
昨年も一昨年もその前もウィルバーから恋人的な意味の何物も貰っていない。母の日にはカーネーションを貰ったが、父の日にネクタイを贈る度胸はなかった。
「ぅぁ」
ただ少し、ほんの少し。日本勤務になってから手を握ったり身を寄せたり、キスをすることが増えた。今年は期待していいのだろうか。
自分も用意しておくべきだろうか。
雨だろうが石だろうが、銃弾のなかでも呼ばれれば傘を片手に馳せ参じる気持ちはあるが、今日ばかりはなんでもない顔で傘を片手に迎えに行ける気がしない。
うろうろと落ち着かず、立ったり座ったり甘いものを口に放り込んで胸焼けをしたり呻いたりと朝から忙しい。
なぜか悲壮な表情で「もしもウィルバーが恋人的な贈り物をくれたら」「もしも自分から渡す勇気が出た」ときのために、何か用意しようと覚悟を決めたときには午後5時を過ぎていた。
『2/15』
起こり得る可能性の列挙。無作為にも見える作為の乱打。
溶岩のなかを漂う微生物がヒトへ進化するまでの過程を描くような、それはさすがにいいすぎだが、壁一面のホワイトボードを埋める気持ち悪いほどの文字列。
それをひとりで書き綴り、書いた端から書き直し、書く場所がなくなると泣きそうな面で頭のほうを消していく。
「なに、してるんすか」
「なんでもないよ」
声をかけると声が返る。
「そうはみえないんすけど」
「なら聞かなくてもいいじゃないか。見ての通りだよ」
「見ての通りの説明が欲しいんすけどね」
組織の内部ではない。半地下にある喫茶店のメッセージボードという名の広告板を一人で占領し紳士ウィルバーが唇を尖らせている。
平日の昼間だ。他の客は紳士に優しい主婦グループとイアホン+文庫本=没入中の女子高生。店主はグラスを磨いている。
「きみに渡しそびれたチョコレートにうまいこと本懐遂げさせる方法を考えている」
「はぁ。じゃあ、交換でどうっすか? 俺もあるんで」
「・・・? 私が朝からきみから隠れていぢましく苦悩する姿を目撃しているかい? きみの目に付かない場所にこもって?」
「当日渡すつもりだったんすけど日付変わっちゃって、どうしたもんかと思ってたんすよ。俺も」
「なんだかきみのノリは軽くないかい?同じことを考えていたとは思えないよ!!」
「朝からウィルバーさんを探して走り回ってた結果なんで。あとわんことてつこちゃんからチョコレート預かってます」
日野兄が持たせてくれたチョコ入り手提げ鞄を見せる。ウィルバーさんは完全にフリーズした。
にやにやと生暖かく顛末を見届けてくれた主婦の方々に一礼する。
「引き取って帰ります。お騒がせして申し訳ないっす」
「アイスコーヒー飲んでおかない?」
店主が磨きたてのグラスを灯りにかざす。カウンターに座った。走り回った以上にウィルバーさんとのやりとりで喉がからからになっていた。
「いただきます」
「ごゆっくり」
ホワイトボードを振り返る。読むほどに紅潮し液体が身体に染み渡っていくウィルバーさんが再起動するまで十分程度かかった。
猛烈な勢いでホワイトボードを消しにかかった紳士に筆記姿勢の女子高生があげた悲鳴は長閑な学び舎を彷彿とさせた。
「はい、ウィルバーさん」
「ありがとう」
「らぶらぶっすよウィルバーさん」
「なんだい、それは」
「なんとか言えるギリギリっすね」
組織の部屋のいつものソファで2月14日当日に渡しそびれたチョコレートを渡す。好きですだとか愛してますとか。
売り場に溢れていた言葉はどれも舌にのぼらせることもできなかった。だから、というには酷すぎるが雑誌で拾った親愛表現を乗せる。
「ローライズ君、愛してるよ」
チョコレートが渡される。提案通りの物々交換に容量オーバーの言葉がついてきた。愛してるなんて言葉に誠意を感じさせるあたりさすが紳士だ。
「うれしいです」
俺もですとはいえない。ちゃんと「愛しています」と正面向いていえるようになるまでとっておきたい。
そう思ったところで相手にそうそう伝わるものではないので、ぎゅっと抱きついて「すきです」といった。
顔がゆるんでゆがんでぐちゃぐちゃになるものだから、チョコが潰れるほどひっついて顔を見せないようにしなければならず、大分大変な思いをした。
『テキストスタイル/教科書的平和論』
朝から空気が慌ただしい。
廊下をばたばたと走るエリート組を捕まえても何も教えてくれないし、サングラス組の姿は見えない。
下手に頭をつっこんで巻き込まれてもいやだから今日も静かにお茶をいれていた。
ウィルバーさんは新聞を開いている。広告でつくった折り紙がきちんとつくえに飾られている。ウィルバーさんは細かい手作業が得意だ。
人間相手の小細工は苦手だが、美術的な意味の小細工には手を抜かない。
こだわりすぎて自滅することもあるがそれも「紳士的な」ひとつの帰結なのだろう。
「これなんすか?」
「やっこさんだよ」
「やっこさんってなんっすか?」
「なんだろうねえ?」
さんというからには人だろうか。人間に見えないこともない。
ウィルバーさんは新聞をぱたりととじ、浮かない表情をする。紅茶の湯気で表情を隠し常へ戻るまでの数秒。紳士的快活さのない一瞬。
「平和ってなんすかね?」
なんとなく口をついた。悪の秘密組織のど真ん中にいるわけだけれども。メディアには陰惨な事件がひしめいている。
組織が関わっているものもいくらかはあるのだろうか? そういう事件が起きない時代を平和な世界というのだろうか。
「対話だよ。平和っていうのはつまり、対話で問題を解決することだ」
「紳士っすね」
ぱちぱちと拍手をした。茶化しているわけではない。「平和」に対話で問題を解決するということが、つまりは紳士的ということか。
ウィルバーさんは口の前で指を振る。
「紳士は対話できない相手からは逃げる」
「平和は逃げない?」
「逃げてはいけない。けれど紳士は逃げてもいい」
ウィルバーさんが胸を張る。再度拍手を送る。
「ふふふ」
満足そうに紅茶を飲む彼の肩に手を置き顔を寄せる。耳たぶにキスをした。硬直し、びりびり産毛を逆立たせじりじりと彼が離れていく。
逃げるかと思った。ウィルバーさんを試す気なんてないけれど。
彼はカップをテーブルに戻し、落ち着きはらって咳払いをひとつ。なにか言おうとしたところで、ドアが勢いよく開いた。
「巨人がでたぞ!」
言って、そのまま去ってしまう。今のはサングラス組だっただろうか。
テレビをつけた。ウィルバーさんは変に脱力した顔のままちらっとおれをみる。
いつも暗い顔のアナウンサーが顔を真っ赤にして巨人の出現を報道していた。
『アヒルのはなし』
石鹸箱にアヒルが乗っていた。
ビニール製の、わかりやすく黄色いぷかぷか風呂にうかべるアレだ。
「ウィルバーさんっすかね?」
組織が温泉にあるため、普段は温泉を利用するが部屋風呂も週に何度かは使う。ウィルバーが以前使って放置したままなら、カビてやいないか。
アヒルを掴んでひっくりかえし、くるくる回して全体を見る。
どこもカビているところはない。
風呂掃除のついでにアヒルもごしごしとスポンジで洗い、タオルで拭いて縁側に干した。アヒルが昼の陽気を受けて寛いでいるように見える。
部屋の縁側にアヒルが座っていた。タオルを敷き、よく日の当る特等席でビニールの肌をのびのびと乾かしている。
「ローライズ君かな?」
彼がアヒルのおもちゃを買ってきて、あまつさえお風呂で遊び、洗って縁側に干しているのだろうか。
想像し難くくはあるが、ありえないとまではいえない。
それなら自分も一緒に風呂に入って遊びたかったと思う。
紳士ウィルバーはアヒルのおもちゃで遊ぶローライズと、そこに紳士的に参加する自分を想像した。どんどん桃色の妄想に進行していく己の頭をぶんぶんと振る。
「ローライズ君はどこだろう」
アヒルの隣に腰掛ける。
「きみは暢気な顔をしているねえ」
アヒルにそっくり同じ言葉を返されそうなのんびりとした調子で語りかけ、ウィルバーがごろんと横になる。アヒルを腹の上に乗せた。なかなか安定よく、アヒルはぺたんと腰を下ろした。
「アヒルっすか?」
「ああ。日本支部もチーム同士の交流が少ないだろう?マネージャーがアヒルに懸賞金をかけて組織のどこかに隠したそうだ」
「見つけると懸賞金っすか・・・。それでチームの交流があるもんっすかねえ」
「アヒルは複数いるらしい。何体か揃えないと自分のがフェイクかもわからない仕組みなんだと」
サングラス組の男がキャリーケースをローライズにみせる。中にはアヒルが入っていた。ガーガーとなく、本物の鳥だ。生き物だ。
「なるほど。じゃあおれもアヒルをみつけたら連絡するっす」
「頼むぜ」
アヒルって何食べるんだろうなあ。風呂に泳がせておいていいものか。
サングラス組の男がアヒルの飼育方法を携帯で探しながら去っていく。悪の秘密結社というわりには気のいい奴が多いと思う。
ローライズは、さて自分がみつけたおもちゃのアヒルはフェイクなのか当りなのか。
いっそフェイクだと面倒がないなとやる気のないことを考えながら部屋に戻った。手に下げた袋からネギがはみ出している。
部屋に戻ると縁側で上司とアヒルが昼寝をしていた。おもちゃのアヒルを腹にのせた上司は大層愛らしい。
その隣でやはり丸くなって眠る生き物のアヒルもかわいくないことはないが、お引取り願いたい珍客に見えた。
「そこは俺の場所っすよー」
ウィルバーを起こさないように(起こすと生き物のアヒルに興奮して離さないだろうから)アヒルに声をかけ、嘴を押さえ問答無用で抱き上げる。
そっと部屋からだした。廊下に放つ。サングラス組の部屋のほうへ気持ちだけ追い立てた。
「ローライズくん。アヒルがいなかったかい?」
部屋に戻ると頬に床板の跡をつけたウィルバーがまぶしそうに目を細めている。日は大分翳ったがまだ夕は迎えていない。
「ウィルバーさんの膝にいるじゃないっすか。お腹に乗せて寝てたっすね」
「いやいやいや。きみの場所で寝ていたアヒルのことだよ」
ウィルバーが意地悪くにやけたように見えた。ローライズは「なんのことっすかね」ととぼける。
「そうだウィルバーさん。そのアヒルとお風呂入ったら乾かしとかないと駄目っすよ。かびちゃいます」
「ローライズ君が一緒にはいったんじゃないのかい?」
疑問顔。わかり難く安堵顔。
どちらがアヒルと風呂に入ったわけでもないのなら、アヒルははじめから風呂場の石鹸箱に設置されていたことになる。いくらマネージャーの企画とはいえ風呂場に立ち入られるのは気分が悪い。
サングラス組との会話をウィルバーに伝えると、ウィルバーは紳士的にきりっとして立ち上がった。
「・・・アヒル集めにいくんすか?」
ため息はでないが、面倒事になった。アヒル放置の意向を交えて話したのだが、紳士にとっては挑戦せざるを得ない課題に聞こえてしまったのだろう。
「買い物片付けてくるっす。ウィルバーさんも外出るなら顔あらわないと、床板の跡がついてるっすよ」
袋を持ち直し台所へ。ローライズが向かうとアヒルをさげてウィルバーもついてきた。
「ローライズくん、紳士的に提案するよ」
「なんです?」
「アヒルと三人で入浴しようじゃないか」
「は?」
アヒルは「人」じゃないでしょう。
ネギを野菜室にしまい、豆腐を冷蔵庫にしまう。
「アヒルって今から捕まえにいく鳥のことっすよね?」
「私が手に持っているビニールのアヒルさんのことだよ。マネージャーの企画を無視するわけではないが、せっかくこんなにかわいいアヒルを用意してくれたのだから遊ばないと悪い」
「なら一人で遊んだらいいっすよ。一緒にお風呂ってこどもじゃないんすから」
ぱたん。冷蔵庫をしめ、ローライズは勤めて平静を自身に命じる。
ウィルバーは誘ったときこそ平静顔だったが、「こどもじゃない」桃色妄想がぶり返しうっすら頬を染めていく。冷蔵庫の前で二人してどんどん赤くなりながら、頭を二転三転させるうちに日は沈み寒くなっていく。
紳士組はアヒルと「三人」湯に浸かり、組織中でまきおこるアヒルの声と黒服の悲鳴を遠い国の出来事のように聞いていた。
『どしゃぶり』
寝過ごした朝はパンの焼ける匂いで目が覚める。
ウィルバーの十八番、焼きすぎのトーストとまとまりきらないオムレツ、野菜サラダの朝食が並ぶテーブル。
顔を洗いにやける頬を引き締め幸せな気持ちを一つ呑み込み、いつもより丁寧に紅茶をいれる。
「おはようございます」
「おはよう。今日はすばらしい土砂降りだよ」
二人で食卓につく。外はなるほど大雨だった。ラジオは道路が水没したと伝えている。
「床上浸水とかしないっすかね」
「日本家屋の水害対策は興味あるね」
「いや、そんな大層なことじゃないんすけど」
表面がやんわり焦げたパンにマーマレードを塗る。
「居住区域以外って地下にあったっすよね」
普段あんまり近寄らなさすぎて忘れがちだが、組織の組織的な部分はすべて温泉旅館の地下部分にある。
さすがに水没したりはしないだろうが、湿気はひどいことになっているのではなかろうか、と。
ローライズが言い終える前に紳士の瞳が輝いていた。
「マネージャーの顔も久しくみていないね。挨拶に行こうか」
「そうっすね」
この人の意識の上でもマネージャーは上司として認識されているのだろうか。とくと観察させてもらおうとローライズは苦いパンをかみしめた。
「ウィルバーさんはシュバインさんと長いんすか?」
「顔をみたのは日本支部にきてからだよ。敏腕辣腕とヨーロッパ支部でも噂されていたね。ローライズ君も聞いているだろう?」
「噂以上にウィルバーさんとマネージャー、お互い知ってるみたいだったんで」
気になっていますと至極素直にローライズがいった。
ウィルバーの部下になって以来、赴任先の上司と揉めるのは通過儀礼になっている。それが今回はなかった。
シュバインとは会話したことすらほとんどないが、紳士組に一目置いているというのだからそれなりの変わり者に違いない。
「はっはっは。紳士は自ら語らずとも知られているものなのだよ」
エレベーターで地下に下る。空気が一変した。
水没どころか完全完備の空調に、ビシっとした緊張感。
「どっかのオフィスみたいっすねえ」
「まるで秘密地下組織のアジトのようだね」
「君たちはまるで紳士組のようだね、とでも返せばいいのか?」
苦笑いのシュバインが立っていた。エレベーターを使うところに、ウィルバーとローライズがちょうど彼の前へやってきた格好。
「退いてくれるか?」
黒スーツの腕に黒いコートと、細身の黒傘が一本。
ウィルバーが「これは失礼」と横へどき、ローライズが続く。
「外はすごい雨だよ。お出かけには気をつけて!」
「らしいな。軽自動車で立ち往生のカワイイ部下のお迎えだ」
はははとシュバインが軽く笑う。その笑顔に紳士組はなにも返せず、エレベーターのドアは閉まっていった。
「・・・のろけだったと思うかい?」
ウィルバーがぎこちなく振り向き、
「おれは怖かったっす」
若干表情筋をひきつらせたローライズが応えた。
二人は何かから避難するように快適地下を堪能し、おやつをせしめて地上へ戻る。地上は、旅館はぐるりと雨戸に閉ざされていた。
厚い木板の向こうから雨音が聞こえる。
「外にでたくなるのはなぜだろうか、ローライズ君」
どんっと雷が落ちた。一瞬建物中が雷光に満たされる。
「・・・ライバルの様子が心配じゃないかい?」
ローライズは雷音に耳が麻痺したというように方耳を押さえる。ウィルバーはたっぷり間を置いて同じ言葉を言い直した。
『growl the dog/ 3.15』
間接の感覚が甘い。重く鈍く痛い。電波の悪いテレビが砂嵐混じりのニュースを映すよう。もどかしく、時と場合によっては致命的。
「あ、」
いまは、その時と場合でタイミングだった。制御のゆるんだ肩と肘が荷物の重さを厭い・離し・振れる。股関節が膝が足首が、自重さえ放り投げて地面へダイブ。
「いたぁ・・・」
このうえ頭までころころと首から外れてしまったらどうしよう。そうなっては、どうしようもないのだけれど。
駅の通路に荷物を放り出しひっくり返り見上げる天井は汚かった。蜘蛛の巣が張っている。それはいいが、煙草のヤニで煤けているのはいただけない。
「大丈夫ですか?」の声はかからなかった。面倒くさそうに駅員がやってくる。平日の午前11時。こんな時間に買い物袋を提げてふらつく成人男子・しかもひっくり返っている・は遭遇確立どれくらいなのだろう。
「あんた何してるのよ?」
オサゲの小学生女児と遭遇するより確立は高いのか否か。
日野てつこに真上からといかけられ、返す言葉が浮かばなかった。
日野てつこは言葉こそつっけんどんだが中々優しいお嬢さんだ。荷物を拾ってくれ、先にベンチに放ったおれのところまで持ってきてくれる。
「救急車にひきとってもらう?」
「保険証ないんで救急車はちょっと・・・」
「生々しいわね・・・」
「組織に医者がいるし、身体は問題ないっス」
ありがとうをいうと、ツンと横を向いてどういたしまして、という。
頬が少し赤くなっている。りんごを食べたときのような、さっぱりと幸せな気分になる。
「身体に問題なくて、なにひっくりかえってんのよ?」
今度は訝しげ。まだベンチにひっかかるようにして座っているおれを遠慮なく観察する。
「それはっすね、てつこちゃん。話せばひたすら短く淡い大人のお話で」
「なによ」
「内緒っす」
正拳突きが鼻先に空気を送り、戻った。
「話さないなら別にいいわ。私はもういくわよ? タクシーに放り込むくらいなら手伝ってあげてもいいけど」
彼女はどこに行き・帰るところだったのだろう。それこそ聞くこともないのだが、日野てつこの提げる鞄から覗くリボンに気づいた。
誰かへのプレゼント。または、渡された贈り物。
「てつこちゃんはバレンタイン誰かにあげたっすか?」
「なによいきなり!」
「なんとなく。お兄さんとか、わんことか、俺らも貰ったっすね。ありがとうございます」
ガサガサと荷物を探す。今日出かけた目的の一つ。
ピンク色のリボンがかかった包みを一つ、お供えをするように日野てつこに差し出す。
「つまらないものですが」
「なに・・・?」
「ホワイトデー」
目をまん丸にして、そろそろと受け取る。爆発しないし、変な薬も仕込んでいない。
正真正銘ただのスポーツタオル(犬柄)だとは告げず、そろそろと、彼女の手提げ袋に仕舞われて行く様を見送る。
「その荷物、全部?」
「まさか。そんなに貰ってないっすよ」
「それもそうね」
ぱたぱた手を振れば、うんうん頷かれる。失礼なような、くすぐったいような、ただの事実確認のような。また幸せを味わい、少し休めば歩けるからと日野てつこにさよならを言う。
「ケータイ持ってる?」
「もちろんっす」
だから、大丈夫。重ねていうと不承不承彼女は去っていく。追い払うようで悪い気はした。
優しい日野てつこは次に会うまで心のどこか隅っこで行き倒れていたおれのことを気にかけているだろうから。
そう思うと、少しばかりしょっぱい。
「なにしてるんすかねぇ・・・」
少し休めば動けるのは本当。身体は微熱で痺れているだけ。
携帯は持っていない。それは嘘。
保険証はないが、組織に医者はおり、日野てつこに心配された幸せと、「次」まで全体量の何十分の一でも思われているという妄想で無事に帰り着く自信はある。
間接どころか筋肉まで甘く痛く重く鈍く熱い。まだ頭ははっきりしているが、これが進行すると持病の恋煩いのようだ。
タクシーへ自分を放り込み、アジトの手前で下車。そろそろと裏口へ回る。
「どこにいっていたんだい?」
木戸を開ける前に内側から声がかかった。日野てつこの正拳突きとはかけ離れた遅さで扉が開き、ウィルバーさんが現れ荷物をさっと横取りする。
「・・・てつこちゃんっすか?」
「お兄さんだよ。熱っぽいから今日は一日寝ているといっていなかったかい?」
「ウィルバーさんこそ今日はバレンタインのお返しを配って歩くんじゃなかったんすか?」
「それをしてきたのは君のようだね?」
先に歩くよう促される。背中でドアが閉まる。
そろそろと、地を這うように二人で部屋まで移動する。
ウィルバーさんはおれが崩れたらすぐに支えられる位置をとっている。
おれはウィルバーさんに支えられることにならないように、糸の切れそうな身体を動かして歩く。
「ローライズ君。私はただ君が心配なだけだよ。別にひとりで出歩かないでほしいとか、女性にあって欲しくないというわけじゃない。病気の部下が紳士的に心配だ」
「おれはウィルバーさんと組んでからずっと病気なんすけど。ずっと心配してくれるんすか?」
部屋にたどりつく。ソファに荷物ごと軟着陸する。医者を呼ぶというウィルバーさんを止め、水を欲しいと強請る。
「私と組んでからの病気というのは、恋の病のことかい?」
「よくわかるっすね」
「同病だからね。こればっかりは相憐れんでいられない」
水を渡される。額に手のひらが乗る。手のひらを掴もうとして、失敗する。
ねぇローライズ君。まるでいつも通りにウィルバーさんがソファの前で仁王立つ。
「紳士的に宣言するが、私は実のところ君を一人で外に出したくない!」
「奇遇っすね。おれもウィルバーさん一人で外に出したくないっすよ」
「しかし、私たちはチームといえど別の人間。好きだといっても独立個人。そうもいっていられないと紳士的に理解しているとも!」
「そうっすねえ。今さりげなく好きっていってくれました?」
「そこで「おれも好きです」とはいってくれないのも君らしい」
「ええまあ・・・」
熱があがってきた。今なら好きでも愛してるでも臆面もなく覚悟もなく言ってしまえるかもしれない。
言葉の重みに叩き潰されて痙攣するのは布団に逃げ込んでからの作業になるだろう。
「私はずっと君を心配するよ」
熱にそろそろ強制終了されそうな頭にいつも通りの怖いくらい誠実な宣言を彼が耳朶に響かせた。
なんて回りくどい会話なのだろう。
水を喉に注ぎ込み、服にこぼし、常温を冷たいと感じる身体がぐらぐらと揺れる。
「包み、あげます」
こぼした水を拭いてくれるウィルバーさんに凭れかかり意識は半分夢の中。ちゃんと言えたかわからないが、言えていなくても構わない。
ウィルバーさん用のホワイトデーのお返しは日野てつことお揃いの犬柄刺繍ハンカチで、なぜかそれを日野兄にも用意していたりする。
それがムショウにおかしくなってウィルバーさんの首に両手を回して笑った。わんこと自分用は今度買いに行こうとふやけた頭で考えていた。
『昼過ぎ』
その人は、涼しい顔でスーパーの軒下に立っていた。
通り雨というには持久力のある雨が一時間近く降っており、その人は、鞄からフランスパンをはみ出させていた。
パンが濡れるのを嫌って動けないのだろう。
そう思い、傘をさしだした。どこにでもある透明なビニール傘で、骨が一本折れている。
「どうぞ」
その人の隣に立てかけて、雨の中を走る。
その日は雨に濡れたい気分と、フランスパンを雨に濡れさせたくない気持ちが重なって、とてもいい人に見えるおれだった。
後日スーパーにいくと、店員に修理された傘と、手紙を渡された。フランスパンの紳士に長髪黒毛ローライズの男に渡してくれと頼まれたのだという。
「はぁ・・・・」
それは、おれで間違いがないのだろうし。
それは、あの人で間違いがないだろう。
受け取った手紙には、フランスパンの紳士の連絡先が書かれていた。
[先日はどうもありがとう。困ったことがあってもなくても是非に連絡がほしい(困ったことはないにこしたことがないが)]
店員に礼をいい、連絡先が海外ですよと二人して苦笑した。
それからそれから、さらに後日。
おれはいまフランスパンの紳士の部下をしている。
「ウィルバーさん昼ごはんの時間っすよー」
「あと五時間・・・」
「夕方になっちまうでしょ。サンドイッチ作ったんで起きてください」
金髪を盛大に布団に広げ、パジャマの紳士がベッドにしがみついている。昨夜は遅くまで映画を見ていたから眠いのもわかるが、既に午後1時前。
十分に寝すぎている。
「あんまり寝てると逆に疲れるっすよ」
「ローライズ君はなんでそんなに元気なんだ・・・」
「いやいやいや。普段のウィルバーさんのほうが余程・・・」
テンションが高いとはいわないでおく。元気ですよと声をかけ、布団に手をいれてくすぐると、腕をつかまれ引き込まれた。
「きみ手が冷たいよ。冷え性かい?」
「皿洗ったからっすかね」
「少し温まってから昼食にしないか」
「スープ冷めちまうんで」
起き上がって布団をはねのけた。ウィルバーさんがぶるぶる大げさに震える。
「フランスパンにハムチーズレタストマト、えんどう豆のスープ」
「絵本にでてきそうな献立だねぇ・・・」
「嫌いでしたっけ?」
「好きだよ」
無駄に格好良く立ち上がる。ささっと身支度を整える姿は数秒前と完全に別人なので、この落差をしっているのは自分だけでいいなあと。
得した気分になる自分へ惚気やがってとつっこむ。
「ウィルバーさん」
「好きっていったかい?」
「いってないっす」
テレビをつけると高校球児が雨の中熱戦を繰り広げていた。
「雨なんだね」
窓を見る。防音ガラスに遮られ雨音はまったく聞こえてこないが、外界は雨が霧のようになっている。
「傘があっても外にでられそうにないねえ」
「出かける用事があったんすか?」
「ないよ。だから食べ終わったら一緒に昼寝をしようじゃないか」
朗らかに提案する様子があんまり無邪気で、嫌がらせにシーツを洗濯してやろうかと思った。
『りんご』
ナイフをいれたときは何も考えていなかった。
四等分にして、八等分にわけて、さくりと皮にナイフをさしたときに自分が何をしようとしているのか理解した。
りんごの話だ。
「ウィルバーさん、うさぎりんごの発祥って日本でしたっけ?」
「タコさんウィンナーは日本だろうけど、どうだろうねえ?」
「最近はカバとかキリンもあるらしいっすねえ」
「りんごかい?」
「ウィンナーっすよ」
扉一枚隔てた廊下でばたばたと騒がしい足音が行きかう。
それを一応耳にはいれながら、紳士組はうさぎりんごを盛った皿といつもの紅茶セットを前にのんびり昼下がりを過ごしている。
「蜜の多いりんごだねえ」
「そうっすねえ。たくさん貰ったんでわんこのところにも持ってきますか」
「貰いもの?」
「サングラス組の髪の長いひとですよ。道でおばあさん助けたら山ほどもらったらしいっす」
しゃりしゃりりんごを咀嚼し、日野家はわんこを迎えてから玉ねぎは消えたのだろうかチョコレートはどうだろうねと会話は弾む。
「わんちゃんは食べてはいけないものが多いから大変だね」
「あのわんこなら平気な気もしますけどね」
今度遊びにいくときのお土産はやはりりんごにしようかそれともジャムにしていこうか。
紳士組の部屋のドアが開き、知らない顔の黒服がマネージャーが呼んでいるとそっけなく告げてドアを閉める。
「鍵かけてんスけどね。フリーパスの権限もってるようにもみえなかったすけど」
「ハイテクも考え物だねえ。アナログの鍵もつけようか」
「前にウィルバーさんが鍵なくしたから指紋認証にしたんすよ」
二人はのんびりと茶をのみ、りんごを食べきり、ゆっくりと部屋を出る。シュバインの執務室へ行くとさっき呼びにきた男がキリキリと奥歯をかみ締めていた。
「待たせたかな?」
「いけしゃあしゃあと!呼びに行ってから30分以上経っている」
「歯軋りは顎に悪いっすよ」
他支部から出向してきたという男がウィルバーにくってかかるがローライズに遮られる。
ウィルバーは意に介さずシュバインの前へ立ち、ローライズは男に懇切丁寧にいかに顎が大事かをときながらウィルバーへ神経を傾けている。
概ねいつもの通りだった。違うのは男がナイフを取り出し、ローライズが刃先をつまみ奪い取り、柄を向けて男に返したことくらいだ。
「チョコレートいります?イライラって結構簡単に納まるモノっすよ」
「そこまでにしておけ」
シュバインが息を吐く。ため息より軽く、面白がっている様子もあるが表情は変わらない。
「呼び出して悪かったな」
用事は終わりだと退室を促される。ウィルバーは渡された紙をぺらりと翻し、さっそうと部屋をでていく。
再度ナイフが向けられる。今度はウィルバーではなく、ローライズの腰を狙い突き出されていた。
最前と同じく、ローライズは刃先をつまんでナイフを取り上げる。 ウィルバーの後ろをついて歩く動作もとめず、そのまま部屋をでていった。
「なんの用事だったんすか?」
「私への用事は経費の明細をもっと詳しく書けということだったよ。きみにはさっきのナイフ使いの実力テストかな?」
「はぁ。テストっすか」
「嫌な響きだねえ」
「そうっすねえ。テストだったんすねえ」
取り上げたナイフを無造作にポケットにつっこみ、夕飯何にしましょうねとローライズが上司へ問いかける。
「酢豚にするかい?」
「先週食べたっすよ」
自分の好物ではあるけれども。ローライズが微苦笑をする。ウィルバーはそれじゃあどうしようねと真剣に思案をはじめた。
「あいつら、なんなんですか?」
「さあな。今頃夕飯の献立でも話し合ってるんじゃないか?」
「は?」
「お前はどうする?」
シュバインが煙草をとりだし、客用のソファに座ったままの男に尋ねる。男はさっと立ち上がり、ライターの火をさしだした。
動きがぎこちない。足に違和感を感じた。動きにくい。
「俺は吸いませんので・・・」
いいながら自身の下半身を見下ろすと、ベルトが垂れ下がっていた。
「そうじゃない。夕飯。外に食いにいくか?」
何事かわからず、手をのばした途端ベルトどころか下着ごと、すとんと床に落ちた。咄嗟に悲鳴が出ない。
シュバインが煙を吸い込み、小さく吐き出す。
「昇級試験の合格祝いだ。奢ってやる」
「ご、ごごごごご、ご?」
「今までの科目は十分合格点だ。さっきのはおまけみたいなものだから気にするな」
「おまけ?」
「精鋭部隊よりは管理間候補になったほうがいいだろう。合格を返上して、ローライズに再挑戦する気はあるか?」
男が大きく目を見開き、首を横にふる。シュバインが椅子の背を向け、さっきよりは大きく煙を吐き出した。
「着替えて来い」
いわれて、男が立ち上がる。両手でパンツを押さえ部屋をでる。歩くうちに背中がびりびりと震えだした。
ふざけた長髪の男になにをされたのかがわからない。合格は嬉しい。昇級試験におまけなどつける必要があるのかとシュバインに反発心もわく。
「あいつはC級なのか・・・?」
物陰に身を隠しながら歩くこと数分。部屋にたどりつくなり男はへたりこみそうになった。
「ふざけやがって!」
ドアノブに小さな紙袋がひっかけられていた。中身は先ほど人に向けたナイフと赤赤としたりんごがひとつ。
『ナイフをお預かりしましたので、紳士的にお返しします』
顔写真つきのメッセージカードに気づいたときには、破り捨てる気力も残っていなかった。
『帰着点』
逆しまに落ちていく傘が映していたのは、路面か夜空か。
傘の柄が、かつんかつんと電柱にぶつかる音に気づいて上を見た。
大きな蝙蝠傘がふらふらと落ちてくる。
肩にぶつかる前に、手を出した。上をみあげる。注意深く観察する。
周りビルはあれど、そのどれかから投擲されたというのだろうか。もっと遠くから風に運ばれてきたか?
こすれて傷のついた持ち手を握り、しげしげと観察する。
煙草の臭い。折れた骨はない、痛んでいる箇所もない。傘自体は十分使える代物。
(そう思っても、雨が降った途端もれてきたりするんだろうな)
前に傘を拾ったときのことを思い出す。くしゅんと、くしゃみをするように笑みが出た。
くるくると傘を巻き、小脇に挟んで歩き出す。
午前4時の散歩。この傘は空の遺失物と決め付けた。
「おかえり」
「ただいまもどりました。おはようございます」
物音を立てぬよう、そっと開いたドアの先は明るく、ふくよかな香り。ガウン姿で椅子に座り、紅茶を片手に上司がはれぼったい目をしている。
「どうかしたんすか?」
「うん?なんでもないよ、昨夜10時から今まで起きていただけだ」
「俺の帰りを待ってた・・・?」
「眠れなかっただけだよ。私は紳士的に二度寝をすることにしよう」
それは二度寝とはいわないのでは? ローライズは頬を掻き、後ろ手に鍵をかける。
「俺も昨日ねてないんで、シャワー浴びたら寝ることにします」
「うん。そうだね睡眠は紳士に大事な成分だよ」
「なんで、ベッド半分あけといてくださいね」
傘は靴箱に寄りかからせた。既に半分寝ているウィルバーにいい感じの笑みを向け、すたすたとバスルームへ向かう。
「おやすみ」
ローライズの背中にウィルバーが声をかける。
ベッドに向かう道すがら、待ってたんじゃなくて、本当にただ眠れなかっただけなんだよとムニャムニャ語を口にしていた。
頭からシャワーを浴びる。脳裏にはふらふら落ちてきた傘の様子が再生されている。
任務とも呼べないような、簡単なお使いを管理官に頼まれた。それ自体は一時間少しで終わり、そのまま戻れば日付が変わる前に寝床に戻れていたけれど。
特に月が綺麗だったわけでもない。中途半端に首をかしげた色の薄い月。
その下をどこを目指すともなく歩き、歩き、ときに跳ねて、気づけば随分と遠回りな帰路をたどってしまった。
結局は元の場所に戻ってしまった。
「寝ぼけてたんスかね」
泡を洗い流し、タオルを身体に押し付ける。髪をしぼり、パジャマに着替える。
すっかり目のさめた身体でてきぱきと寝る支度を整え、ウィルバーの寝室へ向かう。そろそろと足音を忍ばせ、他にあるはずのない、自分の居場所へ歩いていった。
『レストルーム』
開演前の映画館で、スクリーンを覆うカーテンが踊るのはプログラムが準備運動をしているからだよ。
いい年したおっさんがポップコーンを片手に目を輝かせている。
平日の昼間、客の入りが悪い(当然だ)映画館でも彼のテンションは揺るがない。「はぁ。なかのひとも大変っすね」
「なかのひととは、なんだい?」
パンフレットをめくりながら相槌をうつ。彼、紳士ウィルバーは熱心にカーテンへ注いでいた視線を俺に向ける。
あくまでもパンフレットから視線をそらすあたりが頑固だ。彼は知りたがりの癖にネタバレを嫌う。
「なんでもないっす。ウィルバーさんトイレ大丈夫っすか?そろそろ時間っすよ」
「大丈夫だよ。きみは私をいくつだと思っているんだね」
「ウィルバーさんだと思ってますよ」
ポップコーンを置いてさっと席を立つ当りまだ大人らしい行動とほめるべきだろうか。
彼は歩く姿も紳士らしく場外のトイレへ向かっていく。
「カーテンの後ろで準備運動・・・。事前準備は大事ってことっすね」
怪盗紳士と探偵紳士(+警察紳士)の宿命の対決がはじまる前に電源を切るべく携帯を取り出す。新着メールが1本。このまま電源を落とす誘惑を押しのけ内容を確認する。
物凄く急ぎの用件ではなかったので、携帯はたたんだ。電源は落とさず、音もバイブも切ってジャケットのポケットにねじ込む。
そこそこに急ぐ用件ではあったので、ウィルバーさんに携帯の確認は促さなかった。彼は上映ぎりぎりに席に滑り込んでいた。
映画は、予想していたよりもずっと面白かった。
八割期待していなかったので驚きの出来といっていい。ウィルバーさんは隣ですっかり入り込み、ハンカチを握り締めていた。
エンドロールを待って、そっと席を外す。物音立てず、気配を殺し、早々に席を立つ他の客があけた入り口扉を通り抜けた。
6階から3階まで階段をタカタカと駆け下りる。3階で非常ドアを開きぴっちりと壁面に溶接された吹きさらしの鉄階段を駆け下りる。
エンドロールは5分か10分か。
目的地は1ブロック先のデパートだ。水の撒かれた路地を走りぬけ、デパートの従業員扉を潜り抜ける。訝しげな視線をあびるどころか、誰一人いない。
平日の昼間ならこんなものだろうか。組織の計らいか。
地下一階へ辿り着く。表フロアに圧迫され、奇妙に湾曲した通路を抜け、従業員トイレのドアをそっと開く。
一番奥の掃除用具入れをあけるとモップが倒れ掛かってきた。危うく避ける。 柄をつかみ、壁に立てかける。
「大丈夫っすか?」
モップは勝手に倒れ掛かってきたのではない。ガムテープでぐるぐる巻きにされた黒服の-組織の人間がとった的外れな報復行動だった。
ナイフでざくざくとガムテープを切る。黒服はもがもがと感謝らしき言葉をはき、むがむがと次第に不審の視線を俺に向け、最終的にはもがーっと怒気を露にした(目は怒りよりも恐怖に震えていたがローライズは気づかなかった)。
俺は黒服の拘束をとき、来たときの慎重・消音もかなぐりすてて全力で映画館へ走る。走りながらやっと、どうして指令通り助けたのにあの黒服は怒ったのだろうと考え始める。
映画館のある元のビル6階に戻ったときには、ウィルバーはすでにグッズを抱えて会計の列に並んでいた。
胸をなでおろす。エンドロールの間に隣に戻ることはできなかったが、彼はそれを気にしている様子はない。少しばかり寂しいような気もするが、まぁそんなものだ。
「おかえり」
金髪碧眼スーツ姿の鬼のように目立つ格好でウィルバーさんが列からさっと手を振ってくる。小さく会釈して応え、少ないながらもその場の男女にさっと向けられた視線に優越感を感じていた。
「ローライズくん」
組織の自室で紅茶を片手に彼がパンフレットをめくっている。テーブルで携帯がチカチカ明滅しているが彼が気にする様子はない。
彼はソファをぱたぱたとたたき、俺に座るよう促した。
「なんです?」
「サングラス組からメッセージだよ」
パンフレットの上に白い便箋を一枚のせた。俺が紅茶をいれている間にドアの下からいれられてきたのだという。
彼はじっと便箋を見下ろす俺を横目でちらっと見、パンフレットへ視線を戻す。
「手洗いに立っていたのかと思ったよ。君は、私が映画を見ている間に忙しくしていたんだね」
「エンドロールの間だけっすよ。俺も映画見たかったんで、トイレの用具入れで2時間待たせたのがまずかったんすかね」
便箋には「殺されるかと思ったけどありがとう礼はいっておく サングラス組ジョー」と走り書きがされていた。
ウィルバーは曖昧に笑い紅茶を飲む。
ローライズはジョーが2時間放置される間に敵に殺されると思ったのだと解釈していたが、ウィルバーは早く帰ろうと殺気立つローライズその人に殺されると思ったのだろうと察していた。
『ハラノムシ』
ひたすらに眠かったけれど空腹で、
眠れば空腹も忘れると思ったけれど、布団の中で胃が痛くなるし、食い物を追いかける夢をチラチラと見てまるで眠れなかったから起きてコンビニに行くことにした。
眠気より食い気。ほかのどんな切迫した状況でも食い気を最優先させるんじゃないか。自分の性質をまざまざと思い知りかっこ悪いなぁと思う。
自分はもっと生きることに淡白な人間だと思っていた。
財布を持ってきたか。コンビニの入り口で気になって尻ポケットに手をやる。目の前を拳が行き過ぎる。
自動ドアは開いている途中だ。
「え」
財布を確認し、半歩遅れたのがよかったのか。
それはコンビニ強盗とかヤクザとかマフィアとかとんがった少年ではなかった。
身体を斜めにして店に入る。拳を振り回した男は、単に入り口にむけてばたばたと急いでいただけだったらしい。
急に現れた俺を突き飛ばすように、腕をぶん回しただけだ。
俺は、
やはりひたすらに眠くて空腹で眠たくて空腹だった。
気が立っていた。
「なんスか?」
黒いパンツから伸びる黒い靴で男の背中を地面に押さえつける。
気が立っていた、というのは違うか。
平生昼間よりいくらか短絡的になっていた。
踏んづけた男が身を返し起き上がろうとする。ひねり、起き上がる半身の横腹に足裏を移動させる。仰向けに踏んづける。
今度は男の面が露になる。やや霜降り質の肉感が足に伝わってくる。
男がもぞもぞと尻に手をやる。財布でも差し出すのか。
そうではなくて、男は、いかにもちっちゃなおもちゃのようなナイフを出して俺の足につきたてた。
腹を踏んでいた足で男の顎を蹴る。思ったよりもいい音がした。ナイフを抜いてコンビニ外の不燃物のゴミ箱に捨てる。
男は動かなかったが、胸が動いている。
死んだ振りか、意識を朦朧とさせている。菓子パン売り場にいった。欲望のまま籠にばっさばっさと放り込み、アイス売り場でも同じことをした。
レジに行く。レジにエロ雑誌が散乱していた。
面をひきつらせた男が雑誌をざっと横へ退け、籠を置く場所をつくってくれる。「それ、あれが?」
「足、大丈夫なんすか」
「お兄さんに無理やり見せてきた?」
「女性に」
「・・・警察呼んだ?」
「はい」
会計を済ませる。大分安くしてくれたように思う。錯覚かもしれない。
コンビニ袋をぶらさげて、まだ入り口で伸びている男の横を通る。
「女の子いじめる変態はね、かっこいい紳士に成敗されるんすよ。その前に俺にぶつかってよかったね?」
警察を呼んでいなければ、この手の変態がまかりまちがって「紳士」に遭遇する前に始末したのに。
アイスを買ったこともすっかり忘れてふらふら帰路をたどる。
菓子パンを一つかじりながら歩いた。糖分が吸収されていくにつれて、今夜の月は綺麗だなあ、なんて周りを見る余裕がでてきた。
「お帰り」
「ただいまっす」
「浮かない顔をしているね?」
「ええちょっと。はしゃいじゃったなあって」
「たまには買いすぎも面白いよ」
空腹で飛び出したときは不在にしていた紳士が、上司が、同室者がコンビニ袋をじっと見ている。
「おみやげっす」
「ありがとう」
袋を渡し、アイスは溶けていないか気になった。
紳士はテーブルにあれこれ並べながらさっそくアイスクリームをひとつ開けている。
「少し溶けてるかな。きみも今食べるかい?残りは冷凍庫へしまっておこう」
「・・・・・・ウィルバーさんがまともなことをいってる」
「なんだい、それはひっかかる言い方じゃないか」
「溶ける前に紳士的に全て食べきってしまおう、とか」
「お腹を壊すよ。ふふふ、紳士は一度やった失敗は学習するものなんだよ」
紳士が誇らしげに笑う。そういえば今月も頭ごろにこの紳士はファミリーパックの一人食いに挑戦して腹を壊したのだ。
アイスの残りを冷凍庫にしまう。二人分の茶をいれて菓子パンにがりがりと噛り付き、飲み込む。
「ウィルバーさん、」
「なんだい」
小さなクリームをすくってたべる紳士の口端を舐めた。
少しばかりはしゃいだ散歩をしたせいか、食い気が満たされ眠気がいや増してきたせいか。
紳士が暖かい抱きグルミに見えた。
ドアが静かにノックされる。音はわかったが、放っておいた。
腕の中で紳士がもぞもぞとしている。ぎゅっと抱きしめる・抱きとめる。
ドアが静かに開く。
「取り込み中か?」
「寝ぼけてるだけっす。なんすか?」
眠たい目をうっすらと開ける。紳士が何かしゃべっているけれど、指で両口端をひっぱって邪魔をする。
午前9時は過ぎただろうか。時間がわからない。
ソファで紳士を枕にした昨晩のまま、髪一筋乱れぬシュバインさんと向かい合う。
「昨日コンビニで何をした?」
「ちょっとはしゃいじゃったかもっす」
「やはり刺されたのはお前か。傷はいいのか」
「問題無しですよ。警察がここまで?」
「近所だからな。聞き込みで警察が来る可能性はある。被害届けをだすか?」
「嫌っす。そんなことで管理官がここまで?」
「ふん。狂犬の顔をみにきたが、うちには飼い犬しかいないらしい。人違いと処理しておく」
珍しく面白がる表情をシュバインが見せる。
「刺されたって?」
「空耳っすよウィルバーさん。もう一眠り」
「しないよ。いや、してもいいがベッドでの眠りを提案する」
「ウィルバーさん、たまに大胆っすよね」
足音もたてず管理官がでていく。
ありがたい苦労人だ。合唱して頭を下げる。少し態度が悪かったかもしれない。
腕の中で赤面してしまった紳士を横抱きに抱え上げ、時計を探した。まだ午前7時前。管理官は今から眠るのか働くのか。
寝室につく前に疑問もあっさり忘れてしまった。
『はつ恋の刷り込み』 (お題提供:約30の嘘)
彼の初恋はどんなだったのだろう。
雲のフィルターでぼんやり滲む橙色のお月さまを見上げて歩く。
両手をパンツのポケットにつっこんで、頬に夜風を感じる。
鼻を行き過ぎる風は埃っぽい雨の臭いを含んでいる。目をしばたかせると涙が落ちた。
足を放り出すようにして歩く。もう歩きたくないとココロはぐずっているけれど、頑丈な身体はあと何駅歩いたって平気で、やけっぱちな気分が腹のあたりでくすぶっている。
電気回路は、酷使するとぷつんと動かなくなったり、煙をあげて壊れたりする。 丈夫な外側のなかの、繊細な回路。
俺はどれだけ生きたって、情感豊かに振舞ってみたって、そんなになるまで脳味噌は使えないだろう。
丈夫な外側と同じ、大雑把な思考回路は「単純なつくりほど故障しない」ままに、もう別のことを考えている。
数時間前の失恋を抜けて、彼のことを考えている。
「ローライズ君、月が綺麗だね」
公園で顔を洗い、コンビニでロールケーキを買って帰ると、彼は風呂上りのまま髪を拭きもせず月を見上げて氷水を飲んでいた。
「風邪ひきますよ、ウィルバーさん」
「君も寒そうな顔をしているね」
「・・・一緒に入るとかはなしっすよ。今日は」
「残念だ。私は髪を乾かすから、君は風呂に浸かっておいで」
彼は基本的に紳士だけれど、根本的には子どもで、周りに誰もいなければ自身の世話くらい自分でするのだけれども。
「はぁ」
雲に覆われたおぼろの月をみあげる彼が、ドライヤーに向かうとは到底みえず、俺はコンビニ袋をテーブルに置いてドライヤー片手に彼の後ろに立つ。
タオルで彼の髪を包む。水分を吸って重くなり、重くなる分ひっついていくタオルを「なんだかなぁ」と思ってしまう。
「振られてきちゃいましたよ、ウィルバーさん」
「雨にかい?」
「女性っス」
延長コードの具合を確かめ、ゆっくりと温風をあてる。癖の強い髪がゆらゆらと踊り、ふわふわ乾いていく。
「結構本気だったんスけどねぇ。俺も彼女も、友達以上にはなれないって」
「ふむ」
「なかなかに、なかなかっス」
「君は生涯を添い遂げる覚悟で、心臓を捧げる気持ちでその女性に接していたのかい?」
「俺の生涯も心臓も、もうあんたのものじゃないっすか」
ドライヤーに前髪をあおられながら、彼が真剣な顔をする。かっこういいが間抜けだ。
決まりきったことを殊更に問う彼も、任務の失敗談程度にしか先の失恋を思っていない自分も、そうとうに間抜けだ。
「君の完敗だね、ローライズ・ロンリー・ロン毛」
「そうみたいっすね」
ため息。ドライヤーを切り、気の毒そうに俺をみる彼へへの字に結んだ口を見せる。
「ウィルバーさんの初恋はどんなだったんスか」
問うと、ぱっと彼が頬を赤らめた。急に気持ちが盛り上がる。
「どんなだったんスか!?」
「・・・母親だよ」
「・・・・・・はぁ」
彼の髪を一房梳くって、たまに彼がするように口付けた。頭をぐりぐりなでたかったけれど、それは立場的にはばかられたのだ。
「風呂行ってきます」
「ローライズ君、」
「なんすか?」
「そのロールケーキは、」
「食べていいっすけど、紅茶淹れるのは後にさせてくださいね」
大人しく彼が頷き、ロールケーキを冷蔵庫にしまう。
ふと、彼は「母親像」を求めているのだろうかと。唐突に思った。
俺は彼の世話を焼きすぎるところがあるが、俺は恋人ポジションにいるわけではないのだし、けれど彼に恋人がいるかといえば微妙で、
彼はそもそもにして、だ。
「ウィルバーさんは生涯と心臓を誰かに捧げてたりするんスか?」
「私は私の人生を面白くするために生きているだけだよ」
「そうッスよね」
そもそもにして、彼は伴侶という意味に置いて、人生にパートナーを求めていない。
俺はすっきりとした気分で風呂場へ向かう。
「もちろん君も私の人生の一部だよ、ローライズ君!」
朗々とした声が追いかけてきたが、構わず部屋を出た。先ほどの彼のように、ぱっと赤らんだ自身の頬が信じられず、廊下でぺたぺた顔を抑えていた。
チェック!(紳士組)
「おはよう」寝起き頭が一瞬で覚めた。枕元に身支度を整えたウィルバーさんが座り、まぶしいキラキラを振りまいて爽やかな挨拶を寄越す。
「おはようッス」これはあれだ、乙女ゲーというやつだ。俺は起き上がり、さっとカーテンを開けるウィルバーさんを異星人をみるようにみつめる。
いや違うぞ自分落ち着け。ウィルバーさんはもともと冗談のように綺麗な人なのだ。保護欲フィルターを激烈にオンにしなければ息も詰まるほど。
「私は今から書店へ行くのだよ、ローライズ君」
「はぁ。あ、すぐ用意するんで」
「いやいやいやローライズ君!今から書店へ行く私と、帰ってきた私を同じ私だと思わないことだよ!」
あ、いつも通りのウィルバーさんだ。寝癖のついた俺の頭をひとなでし、「いってきます」という。
「いってらっしゃい。気をつけて」「ははははは。いざ迅速に出発!」
時計を見るとまだ九時前だ。こんな時間から書店は開いているのだろうか。俺はなでられた頭を触り、にやけるままに頬を垂れさせる。
布団をたたみ、天気予報を見る。今日は雨こそ降らないが布団を干せるほどの陽気ではないらしい。
簡単に掃除をし、新聞をよみテーブルに青色の紙を見つける。
「・・・なるほど」【チェス終盤の基礎知識 予約券】作者は終盤上手で有名なチェスプレイヤーらしい。発売日は本日、予約店は歩きだと少々遠い日野てつこの同級生の店だった。届けに行くべきか少し迷う。予約券がなくても売ってもらえそうな気もするし、行くと出かけ際のあの勇ましさを殺してしまうような気もする。まったく気にしないかもしれない読めなさが紳士ウィルバーの真骨頂だが。
書店に電話してみることにした。多分店はまだ開いていないだろうし、ウィルバーさんも到着していないだろう。
さて。 3コールで出た書店の店主へ、「本を予約しているウィルバーの家人」と名乗ったとき、起き抜けに感じたトキメキに襲われ思わず呻き、立ちくらんだ。
hello,,(紳士組)
「ウィルバーさん」商店街で買い物。冬の衣料を若干と、お土産に甘い湯気のたつタイ焼きが一袋。
隣にいない彼の名が口をつくのは習慣だ。彼がいないほうがおかしいのだと咄嗟に思う。頭を振る。
大道芸人。ピエロ化粧の玉乗り+ジャグリング。ナイフの扱いがあんまり綺麗で見惚れる。
彼がいたなら、なんと言葉を続けただろう。
いや、彼がいたなら自分より先に見つけただろう。彼が大道芸人を見つけて目を輝かせ、自分の玩具を自慢するように俺に同様の真似をするようせがんだだろう。
または、自分も試してみたいといっただろうか。だから、そうならないよう彼の手を引いて足早にここを離れた筈だ。
だから、手の中が冷たい。彼と自分の冬の衣料を若干と、お土産が香ばしい袋をさげて、俺は繋ぐ人の居ない手を見下ろし、ピエロを見る。
ナイフにきらり、自分の顔が映っていた。
一つ会釈をする。一つ会釈が返る。
組織の近くを通り過ぎる迂回帰宅路へ方向転換した。隣にウィルバーさんがいないことに少しプラスの意味ができた。
かたくなるパン(紳士組)
皮がうっすらこげ茶に焦げた丸パンに噛み付きがぶりとちぎる。もっしゃもっしゃと噛むごとにほんのり甘く、柔らかくなる。
ごくんと飲みこみもう一口。噛み付き咀嚼し顎が疲れ、コーヒーを飲みフムンと周囲を見回した。
誰も居ない日野家の台所。お兄さんは仕事、てつこちゃんは学校、わんこは上司と散歩に出ている。わんこの付き添いの上司のお守りに同道すればよかったが、彼らが出かけたとき自分は、ローライズ・ロンリー・ロン毛は眠っていたのだから仕方ない。
「行(っ)てきます」の書き置きに、パン。かたいパン。かたく感じるだけかもしれない。最近はモッパラ白米を食べていたから。
フムン。食器を流しに置きもう一度室を見回す。掃除も洗濯も済んでいる。散歩組が帰ってくる前に昼食の用意でもと思ったが、どうやらそれも冷蔵庫に用意済みだ。
「暇って贅沢っスねぇ」テレビをつける。首を回す。昨日はてつこちゃんの組み手につきあったから疲れていただけで、なんて寝坊の言い訳を呟いてみる。通りすぎていくワイドショーに恐怖を感じ(自分ひとり社会から置きざられていく錯覚)リモコンを掴む。
テレビの電源を切る前に自転車の音を聞いた。上司とわんこの話し声が耳へ流れ込んでくる。
「お帰りなさい」彼らがただいまを言う前に玄関へ向かう。内側からドアを開け、やわらかな陽を浴びる彼らにほっとして息を吐く。
「ししょう、ただいまなのです」「ただいま、ローライズ君」「お帰りなさい。二人とも泥だらっけスね」冒険譚を聞きながら二人を洗面所へ追いやる。かたいパンは顎に疲れだけ残し胃の腑で溶けてしまった。
さよならも届かない距離(紳士組)
近所で犬が吠えている。ぅおおおおおん。声が聞こえる範囲の、誰かとの交信。
廊下を早足で通り過ぎるものがいる。気配を隠しきれていない、組織内の逢引逢瀬。
「ぅおん」
古風な扇風機が首を振っている。動きにあわせて頭を動かし、小さく口を動かしてみる。
蚊の羽音はしない。バイクも、若者の談笑・喧騒も聞こえてこない。聞こえるのは彼ではない誰かの足音と、犬の遠吠え。
起き上がって、外に出て、一緒に遠吠えをしようか。頭に「負け犬」と冠されてもかまわない。
彼、上司、金髪碧眼ナイス美形。紳士ウィルバーが夜中の2時を過ぎても帰ってこない。
こんな夜が最近週に何度もある。お互いいい大人なんだし、朝帰りだろうが同棲を始めようが、「いい人にあえたんですね」と祝福して終了。
なのだが、折からの熱帯夜も手伝って、「で?一言声かけてくれてもいいんじゃないの、相棒なんだし」といじけに似た感情がぐるぐる、寝苦しい夜にうっとうしさを加えていた。
ばたばたと廊下の足音。あわただしい音ならまだいい。
ぅふんとか、あはんとか、桃色声が聞こえたら、飛び出して殴り倒してしまいそう。
「きゃん」
小さく悲鳴。
「げふ」
息を吐ききらない苦痛の声。脱兎顔向け、俊足礼賛、扇風機を飛び越して廊下に躍り出たローライズが「きゃん」と言った紳士ウィルバーを背中に、「げふ」といわせたエリート組を踏んづけ、寝不足の手伝った凶悪な面でめりめりめりと肋骨に足先を埋め込んでいく。
「肩を叩いただけだ、肩を叩いただけ!そっちが勝手に驚いたんだ」
エリート組の黒髪のほうが血相を変えて、ローライズの肩を引っ張る。
「そうだよローライズ君ただいま、ちょっと驚いてしまってね、いや、君が飛び出してきたことのほうが驚いたんだけど、私は大丈夫だよ」
ウィルバーも反対の肩をひっぱり、ローライズに無事な顔を見せようとするものだから、ローライズは凶悪な面を苦労して解除し、みしみしみしとしきりに音を立てる肋骨からも足先を引き抜いた。まだ踏んづけたまま、じっと下を見る。中途半端な無表情で見下ろされ、金髪のほうは肋骨を折られるより怖かった、と後にいう。
「お帰りなさい、ウィルバーさん。聞いてよければ、最近どこにお出かけなんです?」
「ああ、裏通りの犬飼さんちのジョンが遠吠えをするだろう?誰さんあての遠吠えなのか、調査していたんだ」
「夜中に?」
「夜中しか遠吠えはしないだろう?」
おかしなことをきくね。ウィルバーがローライズをひっぱり、さりげなくエリート組から距離を置かせる。
「君も、犬の遠吠えが気になって眠りが浅いっていってただろう?紳士に解決できない悩みはほぼないからね」
「外に恋人ができたら一声かけてください。そうじゃないなら俺も連れて行って」
そろそろとエリート組が廊下の端を移動する。ウィルバーはぶるぶる震える部下をおどおどと引き受け、おそるおそる肩を抱いた。
「ローライズくん、ひとりで寂しかった?」
「あんたが心配なんっすよ!」
ローライズがくわっと口を大きく開ける。顔を寄せて鼻に噛み付き、まいったか、と自身の鼻を鳴らす。
「さよならも届かない距離で、一人で夜中に出歩かないでください」
ぅおおおおん。ジョンの遠吠えが届く。ウィルバーは遠吠えを真似かけ、ローライズの刺すような視線に気づいて自粛した。
ローカロリーシュガー(紳士組)
コーンフレークを皿にあけて、彼がざぶざぶと牛乳をかける。
皿の縁(青い線がぐるりと一周)まで達するほど、白い液体に浸かるフレークから徐々にチョコレートが染み出る。
彼は銀のスプーンでかき混ぜて、白と茶色をごたまぜにしてしまう。
少し色の失せたコーンフレークと、チョコレートミルクの液体に、白い膜をはった銀色。それを握る黄色人種の指。
「ローライズくん、サラダも食べたまえよ」
「うっす」
彼はざくざくとコーンフレークを食べる。さして膨らまないほっぺたに指をつけた。彼の歯の動きが伝わる。
「なんすか?」いくらか喋りにくそうに彼が問う。
「おいしそうだね、それ」
「ウィルバーさんが買ってきて、いらないっていった奴ですよ」
「そうだったかな」
「そうっす」食べるのかと彼の目が問う。私は口をあけて少し流し込んでもらう。
チョコレートミルクは甘すぎて、コーンフレークは味がしない。
よく食べられるね、といえばさすがに怒られるか。私は彼のサラダをとりわけてドレッシングをかける。
レタスとトマトときゅうりと、ツナ。それにシーサードレッシングの白色。
「なんだかね、ローライズくん。壁を白く塗りつぶしたくなってきたよ」
「鏡をみたらいいっすよ。ウィルバーさん真っ白っすから。見たらきっと気が済みます」
彼のほっぺたに再度指を伸ばす。ぐいっと横に引いて、彼に歯を剥かせた。
白色。キスをする。味のしないコーンフレークと甘すぎるチョコレートミルクはすばやく嚥下される。
「君は味が薄いね」
「比較対象が気になるところっすね」彼の黒瞳を覗き込む。感情を探り当てる前に彼の視線はコーンフレークへ向けられた。


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