迷い犬が望遠鏡を覗き込む
テラスの椅子に座ってぽかんと空を見上げる。
ウィルバーは隣で本を開き、北極星といってもね、ずっと同じ星をさすわけではないのだよと夜空を指差しいつもよりトーンを落とした夜用の声で語る。
目の前に蝋燭とティーセットがあり、ウィルバーが穏やかに本の内容をかいつまんで説明している。
主の聴衆は日野テツコだ。彼女の課題図書がウィルバーの本棚にあったものだからテツコは案内を聞いて作文を書く手はずになっている。地球の自転軸は傾いているから、自転軸の北側の延長が示す星も移り変わっている。過去にベガ、りゅう座α、こぐま座βが北極星をつとめ、現在はこぐま座αが北極星をつとめているのだよ。
様々な時代、言語で語られる「北極星」が時代によって違う星だっていうのは少し以外じゃないかい?お嬢さん。
「望遠鏡あったかしら」
テツコはウィルバーに応えず、家に入ってごそごそと探し出す。以外だったのだろう。サバイバル時代に聞いたことはあったかもしれない。
過去北極星を勤めた星と現在の北極星の位置を観察してみたいとローライズも腰を浮かす。
「ウィルバーさん、」
「なんだい?北極星は移り変わっても紳士ウィルバーはいつまでも紳士だよ?」
まだ熱い紅茶を飲んでウィルバーがにこりと笑う。
「望遠鏡置く場所つくるんでちょっとずれてください」
テーブルを持ち上げると、ウィルバーも素直に立ち上がった。「いわれるまでもなく、知ってるっす」気持ち声を潜め、視線だけはまっすぐにウィルバーの目をみていう。
リリエンタールと兄に望遠鏡を持たせテツコがテラスに戻ってきた。ローライズは設置を手伝い、ウィルバーはまだ冒頭しか語っていない課題図書を忘れて夜空を眺める。
自己主張空転気味の恋戦
「ウィッルッバーさんっ」
いつにないテンションでローライズがウィルバーに飛びつく。
組織の紳士組の部屋である。他に人がいないとはいえ、この動作は非常に珍しい。
ウィルバーはソファとローライズにサンドイッチにされたまま、動揺をかみ殺し
「どうしたんだい?」
と紳士的にいった。声も体も震えている。育ちすぎた大型犬にびびり気味の飼い主そのものである。
「日野のお兄さんに貰ったんスよ」
いいでしょー。とは、流石にいわなかったが。
「羨ましい」
ウィルバーはローライズが自慢気に見せるチョコレートブラウニーに素直に口をあけた。
ぱか、っという擬音がみえる。
ローライズはウィルバーの上にのっかったまま見せびらかしを堪能し、満足するとするりと下りる。
「それじゃあウィルバーさんも作って日野さん家へ持って行きましょう」
「一口くれれば満足だよ」
「それじゃあ、俺がウィルバーさんにチョコもらえないじゃないっすか」
「なんで私が君にあげることになっているんだい」
「普段料理しないウィルバーさんがキッチンに立つなら、俺もブラウニーすごい食べたいっす」
「いやいやいや。君のそれも、お兄さんが作ったんだろう?」
「俺はいつも飯つくってますもん」
「くっ」
紳士ウィルバーが口ごもる。じっとローライズが抱えるブラウニーを見つめ、気づいたローライズが包みからひとかけら出して自分で食べる。
「今日は難しいね、ローライズくん」
「こういう日もあるっすよウィルバーさん。バレンタインですし」
もうひとかけら、ローライズが口に放る。そろそろあげようかな、と思っていた。別にこのままキスするとかではなく。
考えるローライズの横をウィルバーが飛ぶ。走る。小走りに自室に向かい、こけて、戻ってくる。
「もしかしてバレンタイン・・・」
「用意してないわけないだろう」
ウィルバーがローライズに少しへしゃげた袋を差し出す。ローライズは受け取り、もじもじとウィルバーを見る。ウィルバーのほうは、先ほどまでのローライズのように泰然としていた。
「いつもありがとう、ローライズくん」
「それなんか違うっすよねウィルバーさん」
ちなみに俺は本気で何も用意してないデス。ローライズが宣言すると、ウィルバーに小さくひびが入った。
Baby,slip away!!!
石畳から見上げる空は、間に随分と夾雑物があって、遠い。
前にアスファルトに倒れたときは石畳のほうが好きなのにと思ったものだけど、いざそうなってみると石畳のほうが具合が悪かった。
この、石畳という存在自体が彼の側を歩いた日を思い出させる。
遠くに見える人のコートや、まといつく犬。すべて彼と散歩をした庭、小道に似た風景。
17世紀物の建物も、小雨を落として行き過ぎる雨雲も、まだ死ねないと思わせる。
空と地の間にあるのは結局、彼なのだろう。アスファルト付近でも思い出を増やさなくては。
「俺ってば、ずいぶんとまあ、幸せっスねえ」
「幸せなのはいいことだよ、ローライズ君」
「そうっすねえ。ウィルバーさん、そろそろ動けそうです?」
「走らなければどうにかなるかな」
「んじゃ、かつぎますかね」
「・・・酔うよ」
「背中で吐いてもいいっすよ」
腹筋で起き上がる。じんわり血が染み出てくる。隣で丸くなっているウィルバーさんに手をかして、そろそろと荷物抱きにした。
今回は何も以前のように、スタンドプレーで死に掛けているわけではない。紳士組として出動し、どじを踏んで二人とも負傷し、命からがら公園の隅っこに逃げ込んで一時休憩していたのだ。
だからもちろん、死ねるわけがない。
「何が悪かったのかねえ」
「やっぱりウィルバーさんが奥方たぶらかしたのが、迎撃スイッチいれさせたんじゃないっすか」
「紳士的に隠し場所を聞いただけだよ」
こそこそと行動していたが、話し声でばれたらしい。パトカーがサイレンを鳴らして突っ込んでくる。ウィルバーさんを川に捨てる。どぷんと派手な音がした。
続いて飛び降りる。水が冷たい。ウィルバーさんは橋の下にもたもたと進み、ステッキの柄をくるくる回す。非常食が出てきても驚かない相手ではある。
彼の隣に泳いでいくと、きゅぽんと柄が分かれた。懐中電灯のようなものが内臓されている。
ステッキのくぼみをウィルバーさんが押した。懐中電灯がジジジと音を立てて、ステッキからとんでいった。発射。物騒な単語が脳裏をよぎる。
ソレは橋の上に到達するとぼんっと爆発、閃光。橋のかけらが落ちてくるから火力もあったようだ。パトカーが来てもまだどこか安穏としていた広場が騒然とする。
「紳士的じゃなくないっすか?」
「閃光弾と聞いていたのだけどね」
どこが悪かったのだろう。首を傾げながらウィルバーさんが俺の腕を引く。
「逃げようか」
残念だけど、今悔やんでも仕方ないかな。火事にはなっていないようだし。
ウィルバーさんに手を引かれて逃げるのは初めてかもしれない。二人ですたこらと逃げ出し、爆発のせいで増員された捜査員の間をくぐりぬけ、明け方までかけて逃げ切った。
Laughin'Dog
ガラクタなりの矜持といったら、彼は怒るだろうか。
動けなくなってアスファルトに転がって、石畳のほうが好きなのにと思ってる。
肺に血が入ってむせて、体がはねる。ついでに笑う。陸に打ち上げられた魚はきっと、地面の上で死ぬなんてと爆笑するから跳ねるのだ。
月もまだでない夕方。人通りがないことが不思議な大きな道路で体に穴をあけて転がってがたがたと震えている。
ガラクタなりの、矜持だ。少しの恐怖と達成感が胸にはある。
前の任務で彼がなくしたステッキを探し、見つけ、コンビニから宅配でアジトへ送った。怪我は逃げるときに負ったもの。まったくドジをしたものだ。
彼は気に入ったステッキなんていくらでも持っているのに。
自分たちで半壊させた敵対組織に単身潜り込むなんて。なんて、爆笑物の死因だろう。
「お前、一人でいるときのほうが笑っているんじゃないのか?」
硬い靴音。煙草の匂い。隠しナイフのような声。
「管理官っすか」
「ウィルバーじゃなくて悪かったな」
「彼じゃなけりゃあ誰でもいいっす」
煙草が顔の横に落ちて、硬い黒靴が吸殻を踏み潰す。こんな行儀の悪さをする人ではない。何をしているのか、いったい。夕焼けになりかけた空をバックにシュバインが俺を見下ろしている。手が伸びて、俺の腕を掴んで、無理やりひきあげた。
「・・・・・っ」
ものすごく痛い。むせる。咳き込み、血を吐き、体ががたがたと震える。足がおかしいがシュバインは気にしない。ずかずかと歩く。車が近くにとめてあるのだろう。近くじゃなきゃあ、歩いている途中で死ぬ。
「コンビニでIDを使っただろう。三日前から姿が見えないとウィルバーが騒いでいたから、衛星に探させて近くにいた俺が拾いに来た」
「彼は」
「紳士たるもの帰ってくると信じて待つ、だそうだ」
「さすが」
「死にそうな面でいうセリフじゃなかったな。俺が来なければ理由をつけて自分で来ただろう」
小さな黄色いワンボックスカーが待っていた。あんまりシュバインに似合わない。後部座席に放り込まれ、悲鳴を食い殺す。静かに車が走り出し、奥に座っていた黒服が応急処置をしてくれた。
「給料引きっすか」
至極真面目に聞いた。シュバインが「いや」と遠くを見る。
「ウィルバーに仕事を回した。それでチャラだ」
自分が死にそうなものだから、シュバインの首を掴むのもためらいなかった。
「彼になにをやらせようっていうんすかね」
腕に何か突き立てられる。さっきまで治療をしていた男だ。車が止まっている。眉間にピストルを突きつけられている。シュバインの首を掴む手に力をこめる。シュバインは鬱陶しそうな表情をして、俺の顔を殴る。
腕から力が抜ける。腕が垂れる。刺さっているのはダーツだ。薬が塗りこんで合ったらしい。
ずるずると後部座席に引き戻され、目隠しをされる。シュバインが俺をガラクタを見る目で一瞥した。
医務室に放り捨てられ、むりやり包帯を引きちぎって部屋に戻ると彼はこどもと遊んでいた。金髪碧眼の、彼によく似たこどもだった。十歳にならないくらいの、男の子だ。
「ローライズ君、お帰り」
「おかえりー?」
ブロックを広げ、城のような、宇宙船のような巨大な物体を作っている。
「どちらさんの子っすか?ウィルバーさんの子?」
「ヨーロッパ幹部のお子さんらしいよ」
アジアの幹部ではないだろう。いや、ありか。わざと彼の上に倒れこんだ。彼は慌てて受け止め、こどもが上から乗っかってくる。笑った。腹のそこから笑って、傷が痛んだけれど、うめき声も笑っていた。
「管理官に子守を頼まれたんすね」
包帯から血がにじむ。そのまま彼を抱きしめる。こどもが割り込んできて、邪魔だったけれど、これもありだと思った。彼に似ているから、いい。
ガラクタのように電池が切れた。彼とこどもの声がする。目を開けるまでに死ななければ、もう一人では死にかけてやらない。


spr2